35年前の1983年8月21日、マニラ国際空港に到着した中華航空機から降りた、当時の独裁者マルコスの政敵『ベニグノ・アキノ元上院議員』が暗殺された日で、これより1986年のマルコス政権崩壊への『エドサ政変』に繋がった。
 【写真はエドサ政変の舞台にもなったフィリピン空軍基地】
その後、この日はフィリピンの記念日となり、特別休日となっている。フィリピンは祝日で休み、祝日だが休みではない日と、大統領が特別に定める特別休日というのがあって、特に特別休日は大統領の気分で決めることが多く、突然ある日が休日になってしまい、数日前に発表などという例も珍しくない。
しかし、先日2019年の祝祭日、休日が発表され、このように事前に発表することで混乱を回避しようとしつつも当たり前のことで、まだ大統領の気分次第で特別休日が追加される余地は残されている。
その8月21日について、日本では1957年のこの日に野球で大記録が生まれている。大記録とは金田正一投手が中日相手に『完全試合』を成し遂げたことで、完全試合とは今更説明するまでもないが、9回を打者27人で投手が1人もベースを踏ませることなく、長い日本のプロ野球の歴史の中で今までに15度しか達成されていない。
金田は背番号34番を背負い、今はなくなってしまった『国鉄スワローズ』のエースとして活躍した。国鉄とあるように今のJRの前身の『日本国有鉄道』がプロ球団を持っていたというのも時代ではある。
しかし実際は国鉄が持っていた球団ではなく、国鉄関係の私企業などが出資して作った『株式会社国鉄球団』がオーナーとなり1950年に発足。その後、オーナーは1965年に産経新聞とフジテレビに、1970年にヤクルトに変わり、スワローズの名前は一時消えたが、1973年に復活し現在に至る。
金田が入団したのは1950年の球団発足時で、それから1964年まで在籍し、スワローズというセリーグの万年最下位球団の中で数々の大記録を打ち立てている。
今の投手は投球回数とか投球数とかかなり管理されていて、ひとシーズンに20勝以上を上げるのは難しいが、かつては『鉄腕』という言葉が当たり前で20勝投手になって投手はエースと呼ばれたように酷使され、また酷使されても当たり前の時代であった。
金田は14年間連続20勝以上を弱小球団で成し遂げ、30勝以上の年も2度あり、通算勝利数は400勝と驚異的で、今は200勝を上げれば名投手といわれる時代だからこの数字は凄い。また奪三振でも一時は世界記録として残る4490を記録している。
さて、完全試合の話しに戻るが、日本で最初に完全時代を成し遂げたのは1950年6月、巨人の藤本英雄で相手は西日本4-0という記録になっている。この年は金田がスワローズに入団した年で、この記録に触れて『いつかは俺も』と思ったのではないか。
完全試合は過去15度あったと書いたが、その最後は1994年5月、巨人の槙原寛己が広島相手で達成6-0であった。1994年というのは平成6年になり、来年の平成31年で平成の元号は終わるから、このまま行けば槙原の記録は平成唯一の完全試合として記憶されそうだ。
そのくらい難しい記録の完全試合だが、金田は4番目の達成者になり、相手は中日で1-0だが、この試合、9回に40分以上中断する事態もあったが、金田は動じることなく記録を作った。なお、金田は左腕であり、左腕で完全試合を成し遂げたのは金田だけという記録もある。
金田の完全試合のあった時は夏休みであり、この時小生は父親に連れられて山梨県の大菩薩峠登山をしていて、大菩薩のランプの山小屋に泊まり、霧の中を歩いたりして、子どもなりに登山体験を楽しんだ。
登山を終えたその帰りの中央線の車内でスポーツ紙1面に大きく、金田の完全試合が報じられていたのを見たことで、野球少年であった小生は興奮したことを覚えている。
野球少年と書いたが、当時、少年のするスポーツは野球一色で、放課後や休みの日はチームを組んで荒川放水路のグラウンドに行き、対戦チームを見つけては試合をやって、勝った負けたと騒いでいた。
当時の金田は憧れの存在で、母親に縫ってもらったユニホームの背中には『34』を付け、ピッチャーをやっていた。そういった憧れの金田であったが、1965年にスワローズを退団して、巨人に移籍した時はガッカリし、金田への憧れは全く消えてしまった。
金田は弱小のスワローズで投げてこそエースであり鉄腕であったが、巨人という自惚れたチームでは何の面白味はなく、ちょうど年齢的なものもあって野球自体に興味を失ってしまった。
その金田、もう亡くなっていると思っていたら、まだ存命で今年85歳という。好き嫌いはともかく、プロ野球の歴史を作った人物に間違いなくその健在ぶりを良しとしよう。
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