2020年は新型コロナに始まって新型コロナで終わった年と記憶に刻み付けられるが、このままコロナの猛威は2021年も続き、その先もどうなるか分からない。

【写真-1 フィリピンの浅瀬が多く強風が吹かない海域にはカタマランも良い】
そういう意味では科学万能の時代でも目に見えないウィルスに人類は劣勢であることは証明されたが、それでも早くても数年はかかるといわれていたワクチン開発が成功したとされ接種も始まっている。
しかし安全性の証明が不充分で、人体実験ではないかとの批判も強く、今のところ諸手を挙げての歓迎とはなっていないが、過去の歴史の中でジェンナーの『種痘』でも同じ様なことがあったから、一概に決めつけることは出来ない。
不安感を払拭するために各国の政治家連中は進んで接種をし、その姿がニュースとして拡散しているが、こういう人は副作用が出ても最善が尽くされるであろうから、普通の庶民とは比べられない。
ワクチンも一般的には誤解が強く何か万能の様に見られているが、新型コロナ用ワクチンは接種をすると感染しても重症化しない効果があるとされ、接種をすれば新型コロナには罹らないということはない。
また現在の新型コロナの変異種が見つかっている状態では、そちらにも効果があるとは科学的には未知というのが実情で、ワクチンへの過信は禁物で、ここは原始的ながら人の接触を避ける、手洗い、うがいに頼るしかない。
以前にも書いたが2020年初頭は台湾へ行き、その後4月に日本へ懸案の四国八十八ヶ所後半巡り、セブへ帰ってからパラワンの島へ行くなど計画は盛りだくさんで楽しみにしていた。
1月の台湾行きは新型コロナ流行直前であったので滞りなく消化するものの、それ以降は知っての通りの大流行で全部キャンセルし、フィリピン自体が3月半ばから強烈な外出禁止令を出したために、旅行どころではなくなり家に籠らざるを得なかった。
そんな2020年を思い起こすと、2月にセブ島北にある家に行き、その月は他にショッピング・モールへ行ったが、先述した外出禁止措置が3月に出てからは10月まで一歩も家のゲートから出なかった。
そうして、10月になって1度自分の用ではないがどうしても外出する必要があり、その時の様子を綴っているが、街の様子はマスク姿ばかりながら従前通りの印象を受け、11月になって今年2度目のセブ島北の家に行った。
12月になってセブの在外公館へ行く必要を生じて外出するが、これを含めて2020年は5回のみの外出となり、先日、6回目の外出をしたがこれが2020年最後の外出となりそうだ。
外出しないのは感染を怖れている面もあるが、元々それほどセブでは出歩く方ではなく、家に居ることに苦は感じず、コロナ禍だといって変化はなくいつも通りの生活を送っていた。
6回目の外出は年収めということで外食をするが、これが2020年の中で年初の台湾旅行で食べた以外はレストランで初めてということになったから、いかに今年が異常な年であったか分かる。
行った先はマクタン島にあるインド・レストランでここを選んだのはヨット・ハーバー内にあるためで、この地には海辺にいくつかレストランがあって、他の店には何度か行っている。
写真-1がそのヨット・ハーバーで全部で14艇ほどで、モノ・ハルのヨットが4艇、カタマランが同じく4艇、残りは割合大きなモーターボートでハーバーとしては小さいが、場所は東京でいえばレインボー・ブリッジの近くといった感じでアクセスは最高に良い。
ここはどういう経緯か知らないが、セブの経済特区に隣接し、30年以上前に造られ、その当時は隣の海辺にレストランが一軒あって、特区内で仕事をする人が食べに行った店で、逆に当時はまともなレストランは今と違って近辺には無かった時代でもある。
貧困層が大勢を占めるフィリピンで、ヨットやボートで遊べるのはかなりの富裕層であることは間違いなく、ハーバーで繋がれている大きなボートを見ると確かにいかにも成金趣味でその感じは強まる。
小生も日本に居た頃はクルザーとレース艇に乗りかなりヨット・ハーバー事情は分かっている方だが、セブのハーバーは周辺にディンギーなどの小艇が全くなく、このハーバーは海とヨットが好きな人種が艇を置いているのではなく、富を誇示するために置いているのではないかと感じた。
それでも写真-1の奥の方に旗を翻させている50フィート位のケッチは、潮気を感じさせ、翻させている旗からアメリカからやって来たヨットではないかと想像する。
その昔、横浜からハワイまでヨットで行った時、ちょうど1ヶ月かかったが、今の様にスピードの出るヨットならハワイどころか太平洋横断も1ヶ月くらいで走破出来るのではないか。

【写真-2 対岸の山並みはセブ島】
写真-2のハーバーの横から海に向かって伸びる道路は、その先に日本から回航した元青函連絡船の『十和田丸』が繋がれていた岸壁で、船は『カジノ・ホテル』として使われていた。
旧十和田丸も数奇な運命を辿った船で、1988年青函連絡船として最後の航海後に、クルーズ船として改修され1990年『ジャパニーズドリーム』と名前を変えて神戸-横浜間を就航するが、まだ日本はクルーズ船の時代ではなく2年足らずで役目を終えた。
その後、1995年にフィリピンへ売却され『フィリピン・ドリーム』の名で浮かぶホテルとなり、写真-2の岸壁に繋がれ、小生も物珍しさで何度かレストランへ行った記憶を持つが、今思うともっと船内を見ておけば良く惜しかった。
この浮かぶホテル事業も結局思わしくなく最後は放置状態となっていたが、ある時急にセブから姿を消し、その行き先は分からなかったが、2008年バングラディシュでスクラップにされたことが分かり8000トン級の『十和田丸』の寿命は尽きた。

【写真-3 普通はこういう芝生でセールを干したりするが】
写真-3は外食したインド・レストランの2階からの眺めで、遠くには日本のODAで架かった第2マクタン大橋が見え、その奥にはやはり日本のODAで架けた第1マクタン大橋があり、そのまた先には香港のインフラ業者などとフィリピン企業の合弁で第3大橋を架橋中である。
第3大橋は有料の橋となり、コロナ禍でもかなり工事は進んでいるが、橋は作っても接続道路の問題があって、特にマクタン島側は一般道路に直に車を流すようなのでそこでは渋滞は必至ではないか。
こういう島に3本も橋を造っても慢性的な渋滞は避けられず、目下第4マクタン大橋のプロジェクトがやはり日本のJICAが進めているが、その橋は計画では写真-2の岸壁の右側方向に架橋するとなっていて、セブ島側はその右側沿岸を新コンテナ港にすると決定済みで、どうやらこの辺りの景色は大幅に変わるようだ。
対岸のマクタン島からセブ島側からは、500~600mほどの山の稜線がなだらかに伸び、セブも緑が多く見え中心部には野放図に高層ビルが建ち並び、地獄的な渋滞であることを忘れさせる意外にのんびりした風景を眺められた。

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