映画『ONODA 一万夜を越えて』をセブで観る。といってフィリピンの映画館はコロナ禍でもう2年近く閉鎖されていて、観たのはインターネットの無料映画サイトからで、昨年の日本の映画業界の総収入は1619億円、史上2番目の低さだというから、料金を払わずに映画を観ることに少々後ろめたさを感じる。
1619億円という売り上げ規模だが、100円ショップで知られるダイソーの年間売り上げが5000億円というから、日本の映画業界はその3分の1の売り上げにも至らず、いかに縮小してしまったか分かる。

【写真-1 日本の知られた俳優が出演している】
映画『ONODA 一万夜を越えて』はフィリピン・ルバング島に敗戦後にも投降しないで潜んでいた元陸軍少尉『小野田寛郎(おのだひろお)』をモデルにした映画で、フランス、ドイツ、ベルギー、イタリア、日本の合作で監督は41歳のフランス人。
ここで舞台になった島の名前をルバング島と書いているが、英語表記の『LUBANG』の最後のGはフィリピンでは発音しないために『ルバン島』が正しいのだが、投降以来日本の報道はルバング島としているので、違うのではとは思いながらその表記に倣う。
写真-1はその映画ポスターで、この映画は上部にカンヌ映画祭オープニング作品と銘打っているように、2021年第74回カンヌ映画祭の『ある視点』部門の候補作品となった20作品の中でオープニングを飾った。
世界三大映画祭に数えられるカンヌ映画祭はいくつもの部門で成り立っていて、コンペ部門では24作品が候補になり、日本の話題作『ドライブ・マイ・カー』も入っていたが、最高賞のパルム・ドール賞を受賞したのは女性監督作品の『TITANE』であった。
なお、フランス語では『ONODA, 10 000 nuits dans la jungle』、英語では『ONODA – 10,000 Nights in the Jungle』、日本語では『ONODA 一万夜を越えて』となり、主人公の小野田元少尉と一万夜という時間が強調されている。
映画は3時間近くに及ぶ長編だが、一番印象的なのはポスターにあるように小野田が葉の付いた枝を背中に背負って偽装して枯野を歩いているシーンで、その姿がジャングルに溶け込んで行く様子は島に潜んでいた30年という長い時間を一瞬にして凝縮した。
この手の映画の兵隊はロケ現地で雇って日本兵らしく見せることは多いが、監督は日本人俳優による演技に拘り画面の違和感はなく、最初はロケ地をフィリピンのルバング島で行ったかと思ったが、何となく映画の中の風景がフィリピンではないなと感じ、調べてみたらカンボジアでロケをしたとある。

【写真-2 今の物差しで見てはいけないが滑稽さを感じる】
写真-2は1974(昭和49)年3月9日、小野田元少尉がルバング島で投降した時の実際の写真で、30年近く潜んでいた割には軍服や靴は傷んだ様子はなく、投降する軍人は民間人と違って軍服を身に着ける教えを忠実に守ったようで、ちなみに軍服を着けていないと正規の軍人と認められず、そのためにボロボロになっても軍服は放棄しなかったという。
小野田元少尉は投降となっているが、その2年前の1972(昭和47)年にグアム島で発見された旧日本兵『横井庄一』があり、彼の場合は28年間グアムのジャングルの中に潜んで住民に捕らわれたが、その風貌はホームレス同様であり、小野田のような軍人とはまた違った。
横井は1997(平成9)年に82歳で没し、大正に生まれ昭和、平成と三代に渡って生きた当人としては発見後の目まぐるしい世の中はどう映っていたか知らないが、グアム島の残留日本兵という呼び方より、ホームレスと呼んだ方が合っているような気がする。
横井庄一がグアムで発見され、まだアジア地域には残留日本兵が居ると話題になり、その延長で小野田のルバング島残留は周知され、国も救出団を島に派遣するが、小野田は謀略だと姿を現さず、その様子も映画で描かれている。
写真-2で面白いのは左側に立つフィリピン人軍人で、笑いながら小野田の軍刀を手にしているのと畏まって陸軍式の敬礼をしている小野田の姿と対象的で、この軍刀を手にした人物の肩章からフィリピン海軍の少将と分かり、後方にはアメリカ軍の軍人と思しき人物が写っている。
和歌山県海南市出身の小野田寛郎の軍歴を辿ると、旧制海南中学卒業後に中国・上海で日本商社に務め、徴兵年齢の20歳になって和歌山の歩兵第218連隊に配属され在営中に幹部候補生を志願し、1944(昭和19)年22歳の時に久留米第一予備士官学校へ入校する。
予備士官学校は満2年から1年8ヶ月、或いは8ヶ月~11ヶ月と短い間に養成期間が変わっていて小野田がどれだけの期間同校で学び卒業したのか良く分からないが、戦局は暗雲が立ち込め部隊を支える下士官を促成しなければならず、養成期間はどんどん短くなった。
ちなみに、小野田の男兄弟だが、兄2人は東京帝大出身で長兄は陸軍軍医、次兄は陸軍経理学校卒の経理将校、弟は陸軍士官学校出の航空部隊将校とかなり優秀、当時の軍国体制の中では煌びやかな一家だが、そこから小野田一人が中学卒業後に大陸へ渡ったことには解せない感じはある。
小野田は陸軍中野学校の浜松の山深い二俣分校出身となっていて、中野学校というのは陸軍が諜報員を育てるために作った学校で、二俣分校はゲリラ戦要員を養成したといわれる。
ただし、小野田は三ヶ月程度の訓練を経て1944(昭和19)年9月にフィリピンへ派遣されるが、フィリピン戦線を指揮した第14方面軍の山下奉文大将が満州からマニラに降り立ったのは同年9月で、小野田は第14方面軍情報部付きだから直接顔を合わしていたかどうか分からないが、興味深い時期の一致である。

【写真-3 島にはスペイン植民地時代の古い灯台がある】
映画では小野田と共にした3人の兵の様子も描かれているが、1人が途中で離脱して投降、他の2人はフィリピン側の捜索隊に射殺され特に1972(昭和47)年に射殺された元上等兵の場合は日本の遺族から恨まれることにもなった。
また、小野田達は地元民の食糧や生活物資を略奪、しかも戦闘と称して地元民の多くを殺傷していて地元民の敵として相当な恨みを買っていたが、当人達は盗んだ短波ラジオで日本の戦後の様子は逐一掴んでいたが、投降することなくこの点が今でも不思議といえば不思議である。
小野田は投降翌日に当時の大統領マルコスに軍刀を返す儀式写真が残るが、1974年はマルコスが1972年に戒厳令を布いて、独裁体制を盤石にした頃で、時の権力者と一介の投降者が写真のような儀式を行ったのは色々理由はあるだろうが、日本の巨額な戦時賠償がマルコスの懐に入り、日本の商社が賄賂攻勢をしていた時代で、大切に扱う必要があった。
マルコス側はそう思っても、ルバング島で殺傷された地元民の関係者は恨み骨髄であったが、日本側は多額の賠償金を島民に支払って沈静化しているが、そういった裏での動きを小野田はどう思っていたのか聞きたいところである。
写真-3は小野田達が潜んだ洞窟の一つで、人が立っているようにルバング島では『ONODA TRAIL』と呼んで観光資源として活用しているようだが、マニラ湾湾口に位置する島は面積125平方キロというから伊豆七島の八丈島と三宅島を併せた面積を持つ。
ルバング島へ行くにはマニラから週一便の一晩かかる直行船が出ていて、対岸のルソン島バタンガスの港からも船は出ているようだが渡るには不便な島には違いなく、それがまた自然が残されていることになり、小野田達の潜伏生活もその自然が味方したようだ。
小野田は29年ぶりの日本帰国『最後の日本兵』などと呼ばれマスコミも世間も過熱したが、『軍国主義の亡霊』という批判も強く、そういった批判が嫌であったのか帰国半年後にブラジルで牧場経営をしている次兄を頼り、10年かけて牧場経営に成功し、結婚もする。
しかしその相手は後に何かと問題のある戦前回帰を目論む『日本会議』傘下の女性組織の会長に収まっているから、小野田の立ち位置というのはあまり変わっていないことが分かる。
小生がアレッと思ったのは日本の居住地が佃島にあるタワー・マンション草分けの建物であったことで、どこへ住もうと勝手ではあるが横井庄一とは違って財産は相当あったのだなと思った。
最後の日本兵と呼ばれた元陸軍少尉小野田寛郎は、2014(平成26)年1月16日、肺炎のために東京の病院で死去。91歳であった。

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