ウクライナに対するロシアの侵略戦争が激しさを増す中、世界は反ロシアの声は高まり、昨2日の国連総会でロシアに対しての非難決議が反対4ヶ国のみの圧倒的多数で採択されたと日本のメディアは騒いでいるが、棄権に回ったのは35ヶ国、投票そのものをしなかったのが12ヶ国もあった。

【写真-1 連合軍はマニラ撤退時に無防備都市宣言をした】
国連加盟国は193ヶ国あり、今回のロシア非難決議に賛成したのは141ヶ国で、棄権と投票しなかった国は中立という大義名分を掲げた国もあったであろうが、永世中立を標榜するスイスやスウェーデンなどがウクライナへの兵器援助を踏み切ったように、世界はロシアのウクライナ侵略を断罪している。
今回棄権、無投票の国47ヶ国はロシア寄りと見て良く、反対の4ヶ国を加えると未だロシアを支持しているのは51ヶ国もあり、国連加盟国の4分の1を悠に超す国が、戦争に『No』を突き付けていない訳で、これが世界政治の現実といってしまえばそれまでだが、殺し合いの極致である戦争を肯定、容認する空気は世界の国別レベルでは結構濃いということが分かる。
ロシアが硬直しつつある戦線に対して『核』使用を示唆し、実際ロシアの核を扱う部隊に命令を出しているが、これを戦術上の恫喝と見るかプーチンの狂気の顔付きからは最初から実際に使いたがっていることなのか分からず、それがまたプーチンの無気味さを強調させる。
このため、日本では核の所有や開発論議が、自民党を中心に活発になり特に何かと発言して大物ぶりを誇示したい無能の安倍など、メディアでの無責任な発言は多くなり、それを受けて第2自民党といっても良い大阪の維新の連中なども核について容認発言を前面に押し出して来ている。
維新など次の選挙に核所有について公約として議論すべきだなとこの期に乗じているが、維新の体質はヒットラーに近いという批判にヒットラーと比喩するのは国際的にはおかしいと幹部連中はムキになって反論したものの、プーチンをヒットラーに準えて批判、非難しているのは政治指導者以下山ほど噴出していて何らタブーではない。
『核』つまり原子爆弾が人類を滅亡させる最終兵器というのは分かっているはずの日本が容認しようとしているのはそれこそ『平和ボケ』であって、ロシアの侵略行為に便乗して巧みな言葉で核容認の世論へ引っ張ろうとしている政治屋連中は恥ずかしくないのか。
もっとも恥かしいと思うようなメンタルを持つような人は最初から政治屋家業など志向しないであろうし、何よりもこの手の政治屋連中は自らは鉄砲を撃たずに後方で命令を出して撃たせる側だから注意は必要である。

【写真-2 東洋の真珠といわれたマニラの一ヶ月に及ぶ市街戦による惨状】
さて、3月3日の日本は『桃の節句』でお目出度い日だが、標題にあるように1945(昭和20)年3月3日、一ヶ月近く続いた連合軍と日本軍とのマニラを舞台にした市街戦が終わった日で、この市街戦でマニラ市民10万人が死に、一ヶ所での戦争による市民の死亡は第二次世界大戦中で最大規模、広島、長崎の原爆攻撃よりも多い大量死である。
1941(昭和16)年12月22日、日本軍の主力部隊はルソン島中西部にあるリンガエン湾に上陸して首都マニラを目指し、11日後の1942(昭和17)年1月2日にマニラを占領したが、この時フィリピン側は日本軍がマニラに侵入する直前の1941年12月26日に『無防備都市宣言』をしてマニラを無血開城したために、市内を舞台にした大きな戦闘は起きなかった。
『無防備都市宣言』というのは英語では『Open City』といいジュネーブ条約にも明記されているが、この宣言をした都市には攻撃をしてはならず、分かり易く言えば都市単位の無条件降伏になり、戦闘になった場合の人や建物などの被害を免れることが出来る。
第一次世界大戦時のベオグラード、第二次世界大戦末期のローマなどで宣言されているが、実際は交戦国側には伝わらなく空襲や戦闘が行われていて、軍隊というのは理性では動くものではないと分かるが、日本軍が破竹の勢いであった時期のマニラの場合は連合軍の判断が良かったのか成功した。
日本占領後は軍政が敷かれ日本はフィリピンで大きな顔をしていたが、連合軍は着々と太平洋上の南から日本軍を撃破して北上し1944(昭和19)年10月20日、連合軍はレイテ島に上陸し、日本軍は海軍の主力艦船を投じ、陸軍もレイテ島死守、神風特攻隊を編成し機動部隊攻撃するも劣勢は変わらなかった。
1945(昭和20)年1月9日、連合軍はリンガエンに上陸しマニラ奪還を目指すが、以前にも書いたが小生の叔父の部隊は連合軍上陸の10日前にリンガエンに上陸していて、上陸出来た自体は奇跡的であるが、その後連合軍に追い詰められてバギオ北方70キロの山中で7月31日に戦死する。
連合軍がマニラに迫って来るのを、フィリピン守備の第14方面軍司令官の山下奉文大将はマニラを無防備都市宣言にして、主力はルソン島中部の山岳地帯に立て籠もって持久戦を選択したが、大本営は尻尾を巻いて逃げるような無防備都市宣言に反対し、また海軍を中心に徹底抗戦の声が高く、無防備都市宣言は成されずに山下などの高級幹部はマニラを後にする。

【写真-3 9月2日に山下以下は降伏で降りて来たが飢餓には遠い体形】
海軍部隊と書いたが、当時マニラに居た海軍軍人は沈められた乗組員が多勢で船同士の海戦なら強かったであろうが陸戦には全く訓練されない寄せ集め、文字通りの『岡の上の河童』でしかなく、しかもまともな武器も持っていなかった。
2月3日、アメリカ陸軍第14軍団(第1騎兵師団及び第37歩兵師団)がマニラ地区へ突入し、日本軍と市街戦が始まり、この時の兵力は公式には日本側海軍1万人、陸軍4300人の計1万4300人となっているが在留邦人は軍に取られ多くが死亡し、アメリカ軍側は3万5000人とフィリピン人ゲリラ3000人の計3万8000人となっている。
戦闘が始まった当時マニラ市内にはまだ70万人程度のフィリピン人が居たとされ、アメリカ軍は市街地の堅固な建物を楯にして反撃する日本軍に対して空爆や艦船と陸上から砲撃よる攻撃を加え、日本軍の執拗な抵抗もあって市街地は破壊された。
劣勢の日本軍は退却時に捕虜の虐殺などを行い、また占領中の残虐行為なども後に判明するが、この戦闘で10万人の市民が死んだのは、日本軍の無意味な抵抗、アメリカ軍の容赦ない重火器による攻撃によって生じたと事も事実で、日米双方ともにこの事に責任はあるが、戦争をしている当事者にどちらに責任があるのかと指摘してもあまり意味はないようだ。
2月26日、マニラ防衛の日本軍指揮官が自決し、残存日本兵もマニラから逃げ出し、3月3日になってアメリカ軍は戦闘終結を宣言して、史上稀に見る犠牲者を生じた『マニラ市街戦』は終わった。
『マニラ市街戦』についてはあまり戦史の中では取り上げられていなかったが、近年は戦闘の愚かさを象徴する出来事として注目されるようになり、それでもフィリピンでの戦争といえばレイテ沖海戦とか神風特攻隊ぐらいしか興味のない日本人の認識度は今一つ弱い。
1945(昭和20)年8月15日、天皇のラジオ放送によって日本国民は日本が負けたことを知るが、前線の部隊は敗戦であることは知らず戦っていたのも多く、フィリピンの場合、山下奉文が籠っていた山中から9月2日に降りて来て降伏し、翌9月3日に降伏の文書に調印して公式にはフィリピンの戦いは終わった。

【写真-4 セブ島の日本軍が公式に降伏をした場所】
といってフィリピン各地に敗走を続ける部隊が一律に降伏した訳ではなく、例えばセブでは山下が正式調印した前の8月24日、セブ市から北方80キロ程の地点で、正式な降伏が行われ、以前は降伏した地点に『JAPANESE SURRENDER AREA』と書かれた粗末な看板があったが、今はなくなっていてその内歴史的な場所がどこであるか分からなくなりそうだ。
多大な犠牲者を出した『マニラ市街戦』だが、戦後その責任を問われて山下奉文は戦犯となり、マニラ市郊外のモンテンルパ刑務所で1946年2月23日絞首刑に処せられるが、60歳であった。
この『マニラ市街戦』と同じことが今、ウクライナを舞台に進行中で、ウクライナの場合はロシアが宣戦布告をした戦争ではない侵略その物で、市街戦の残酷さというのを『マニラ市街戦』の故事で世界の人は知る必要がある。

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