今年第1号の台風がフィリピン東方遥かに近づいていて、ここ数日セブは雨が降ったり止んだりの天気が続き、例年4月というのは1年中で1番暑い時期になり晴れた日が続くのだが今年はどういう訳か天候不順で、来週から始まる『ホーリーウィーク(聖週間)』もこの台風がもたらしている雨雲によって天気は悪いとの予報が出ている。

【写真-1 毎年この道を歩く再現イヴェントが行われている】
昨年の12月にセブを襲った台風『オデット』で大被害を受けた近くのビルの補修がようやく始まった中では、この台風1号は有り難くないが、針路はフィリピンには近寄らず日本へ向かっているようで安心して良いが、今日も朝からシトシト雨が降っている。
何とも湿気っぽい4月9日の土曜日であったが、この日はフィリピンの数少ない祝祭日で、土曜日に当たっているからと日本のように動かして連休にするような芸当はまだフィリピンにはなく、祝祭日名は『勇者の日(Day of Valor)』、こちらの言葉では『Araw ng Kagitingan』と称している。
この日は太平洋戦争中の1942(昭和17)年4月9日、マニラ湾沿いに突き出るバタアン半島に立て籠もって降伏した米比軍捕虜約7万6000人以上を捕虜収容所まで移送を始めた日で、この移送で1万人前後が死亡し、戦後『バタアン死の行進(Bataan Death March)』と名付けられ日本軍による捕虜虐待事例として特筆される一つになっている。
写真-1の地図を基に説明を加えるが移送を始めたバタアン半島先端のマリヴェレス(Mariveles)から捕虜収容所のある北方に位置するオドンネル(Odonnel)まで陸路で120キロあった。
計画では途中バランガ(Balanga)-サンフェルナンド(San Fernand)間の53キロはトラック輸送、サンフェルナンド-カパス(Capas)間48キロは鉄道移送とし歩かせる距離は42キロ程度であったが、トラック輸送はほとんどされず結局マリヴェレス-オドンネル間83キロを歩かせることになった。
この出来事は1941(昭和16)年12月24日、フィリピン防衛軍を指揮していたマッカーサーがマニラを『無防備都市宣言』にして、バタアン半島とマニラ湾口にあるコレヒドール島に米比軍が立て籠もったことから始まるが、籠城戦というのはやはり近代戦争にはそぐわず、マッカーサーの軍人としての戦術能力はやはり劣る。
日本軍は米比軍がマニラから撤退した前日の23日に陸軍第14軍がリンガエン湾に上陸(写真-1に載っていないが左上の西海岸)してマニラを目指し、翌1942年1月2日にマニラを占領、主力をバタアン半島に立て籠もる米比軍攻略に回し、長い攻防の末、米比軍は4月9日に降伏した。
また、コレヒドール島に立て籠もっていたマッカサーは、3月12日に当時のフィリピン大統領ケソンなどと共に魚雷艇で脱出し、ミンダナオ島北部で飛行機に乗り換えてオーストラリアまで逃避したが、コレヒドール島の米比軍守備隊は5月4日まで持ち堪えた。

【写真-2 フィリピン人の知り合いがこの行進から逃げて生還している】
バタアン死の行進に関する写真は多く残るが、その撮影日時や出所が不明で他で撮った写真がバタアンの物だと出ているが、写真-2は米比軍の捕虜が立て籠もった山から出た直後で、捕虜達の服装も整っているし、右端ではカメラを構えている米比軍の人物が写っていてこの時点では記録が取られていたことが分かる。
捕虜達は83キロを3日間かけて歩かされた訳だが、投降時の捕虜の具合は栄養失調とマラリアが蔓延していて、とても長距離を歩ける状態ではなかったが、日本軍は銃剣で追い立てながら歩かせ、落伍者や抗命者を容赦なく殺したという。
フィリピンに住んでいれば分かるが4月というのは年中暑いフィリピンでも最も暑くなる時期で、暑さに慣れているはずの身体でもかなり堪え、タイやラオスでこの時期に水をかけるのが無礼講になる『水かけ祭り』が盛大に行われるのも、この暑さから来ている。
その炎天下の下を歩かせたものだからただでさえ弱っている捕虜はバタバタ倒れ、それでも水の補給や休憩を充分に取れば死なずには済んだが、日本軍には『生きて虜囚の辱めを受けず』の先陣訓があり、捕虜になるなら死んだほうが良いと徹底していて、捕虜を守る思想など全く欠けていたから被害は拡大した。
行進中に大本営参謀に寄る『偽命令』というのが出て、これは捕虜を処刑しろという内容だが出したのは『辻政信』で、その命令を真に受けた部隊では捕虜を処刑したが、命令に疑いをもって拒否した部隊もあったというから日本軍の指揮官も千差万別である。
辻はシンガポールでも華僑虐殺事件に関わり、ガダルカナルやインパール作戦など日本軍の問題のあった負け戦に多く関わり、それでいて大本営内部では処分が出来ず、戦後は戦犯容疑を逃れるためにタイで僧に化けて逃亡。
1950(昭和25)年になって戦犯容疑が解除され『潜行三千里』を書いて作家、石川県選出の衆議院議員、辞職後に参議院全国区に3位で当選し、1961(昭和36)年に参議院議員の身分でラオスに渡りその地で行方不明になるが、その渡航目的は不明ながら当時のヴェトナム戦争と関係があるのは確かなようだ。
こういった謀略に満ちた人物が参謀として日本陸軍内を泳ぎ回っていたのも不思議だし、戦犯容疑もいつの間にか雲散霧消してしまい国会議員になるのも不思議だが、そういえば戦犯となった岸信介が後に総理大臣になったのももっと不思議だが、日本人は都合良く健忘症に罹るようだ。

【写真-3 かつてその傍を通ったことがあり計画では出力621メガワット】
この『バタアン死の行進』では第14軍を率いた『本間雅晴』中将などが戦犯として裁かれ、本間は1946(昭和21)年、マニラ近郊のロスバニョスで銃殺刑に処されるが、本間についてはその立場と人柄から死刑はおかしいという声は多数上がっていた。
話は変わるが事件のあった『バタアン』という言葉から連想するのはこの地にフィリピン最初の原子力発電所が建設されたことで、写真-3がその全容だがこのバタアン原発はほぼ完成しながら一度も稼働していない原発として有名である。
マルコス独裁政権時代全盛期の1976年に電力不足を解消するという名目で工事は始まったが、総工費は20数億ドルにも達し、当時のフィリピン政府の年間国家予算が15億ドル程度であったことを考えるといかに過重なプロジェクトであったか分かる。
しかもマルコスとその取り巻き政商はこのプロジェクトから1億3000万ドル以上の裏金を懐に入れていて、マルコス王朝の資金源ともなっていたが、1979年の『スリーマイル島事故』のために工事は一度は中止された。
工事はやがて再開され1984年にほぼ完成し稼働を待つばかりであったが、次々と欠陥が見つかり、この時点で当初5億ドル程度であった予算は23億ドルに膨れ上がっていて、1986年になって『エドサ政変』で国を食い物にしたマルコス一党がフィリピンから追い出され、このマルコス・プロジェクトは終焉を迎えた。
アキノ政権が誕生した1986年2月のすぐ後の4月に、今ロシアと戦争をしているウクライナのチェルノブイリ原発で20世紀最大の大事故が起き、アキノ政権はバタアン原発の稼働凍結を決定し、以降今日まで稼働されていない。
国家予算に匹敵するような巨費を注ぎ込み、マルコス一党に散々食い荒らされたバタアン原発だが、一時は閉鎖中の維持費もなくて炉心まで見学出来る有料原発ツアーまで企画して一般人に開放していたが今もやっているのであろうか。
36年間封印されているバタアン原発だが、政権によっては稼働を容認する動きもあって、アロヨ政権末期の2010年韓国の原子力機関にバタアン原発の稼働可能性を調査させ、10億ドルかければ稼働は可能という答えを引き出した。
これについてはアロヨもマルコスと同じように、原発という巨大な金が投じられるプロジェクトから莫大なお零れにありつける魂胆であったのではと噂されたが、実際アロヨは退任後に別の容疑で逮捕され長い間拘留されている。
今の大統領ドゥテルテもバタアン原発稼働を含めて原発開発容認者で、こちらは石炭火力発電を削減させるためともっともらしい理由を挙げているが、その裏ではドゥテルテの取り巻き政商が原発輸出国の韓国、中国、アメリカの会社と話を進めていて、やはり原発プロジェクトは美味しい話になるようだ。
現在選挙戦真っ最中の大統領選で、バタアン原発を推進したマルコスの息子が優勢で当選の暁にはバタアン原発稼働、或いは別の場所に建設を打ち出して来るのは確実で、またもや利権に塗れるのかと指摘する向きは多く、この一点でマルコス当選阻止を叫ぶ者も多い。
原発はその後の使用済み核燃料と核のゴミ処理が問題で、放射能汚染物質はどこの国も地中に埋めたりすることしか出来ず、フィリピンの場合は3000以上ある無人島に運ぶか、バタアン半島の山の中に埋めれば良いと思っているのではないか。

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