セブには大使館はないが自国民が多い、あるいは昔からの繋がりから正規の領事館を置いている国は日本、韓国、中国の3ヶ国のみで、この他フィリピン人を名誉領事に据え置いて代行する名誉領事館はいくつかあるようで、過日イタリア・レストランへ食べに行ったら、その敷地内に『何とか領事館』のプレートと国旗を掲げた建物があり、何とかと書いたように国名の記憶はない。
【写真-1】
セブにおける日本の在外公館の歴史は戦前に遡り、『在セブ日本帝国領事館』が1943(昭和18)年11月21日(日曜日)に開設され、写真-1はその当時領事館として使われた建物の現在の姿で、近くにはセブを訪れる観光客は必ず行くサント・ニーニョ教会、マゼランクロスがあり、セブ市役所も傍にあり、戦前はセブ市の中心であったことが分かる。
1941年(昭和16)年12月にフィリピンに侵攻、占領した日本は軍の支配する軍政を敷き、その軍政は1943年10月11日に終わり、その3日後の14日に民政移管となって『フィリピン第2共和国』が発足するが、この共和国は日本の傀儡政権で戦後にラウレル大統領以下の要人は、対日協力者として戦犯に問われている。
フィリピン第2共和国発足と関係があるのか、翌月の11月に領事館がセブに開かれるが、前年の1942(昭和17)年6月の『ミッドウェー海戦』で日本海軍はボロ負けし、これを境に優勢であった戦況は下降し、陸軍もガダルカナル島からの撤退など負け戦が目立ち敗戦への道を歩み出す。
セブ領事館開設のこの年の4月には『半年だけは優勢に戦える』と公言した山本五十六海軍大将が飛行中に戦死し、9月に日独伊三国同盟の一角イタリアが全面降伏、10月に泰緬鉄道が全通、日本国内では学徒動員など総動員体制が強化されて行く。
当時のセブ市の邦人数は何人いたかはっきりしないが、日本人会の会員はそれほど多くなく100人台だが、日本人学校もあり、日本の貿易商社も進出していてダウンタウンでは日本人商店が軒を並べていたように日本人に寄る経済活動も活発で、そういった理由で領事館が開設されたようだ。
敗戦後に領事館は閉鎖され、その後どのように扱われたのか定かではないが、建物だけは現存し、戦前に撮られたセブ領事館の写真と比べても窓の形など外観はほとんど変わっていないが、現在は電気製品などを扱う商店が使っていて、毎回この近くに来る度に外観の写真を撮るが中はどうなっているのか一度入ってみたいと思うが実現していない。
なお、セブ領事館開設の3日後にミンダナオ島ダヴァオ市にも帝国領事館が開設されていて、ダヴァオの場合は明治期から日本人に寄る開拓が盛んで、主にロープに使われるマニラ麻(アバカ)栽培に従事し、最盛期には2万人近くの日本人が住む一大日本人コミュニティーを形成し、日本人学校も7校程あった。
南洋地域で最大級の邦人を抱えているためもあってダヴァオ市には1920(大正9)年に帝国総領事館分館が開設されていて、セブの帝国領事館開設に合わせてダヴァオも領事館に昇格したのが当時の流れのようだ。
【写真-2】
フィリピンの戦後の日本の在外公館はマニラの大使館のみで、セブに住んでいると日本関係の手続きはマニラまで出かけなければならず、小生も1990年代初頭に今の新築移転したマニラ湾沿いにある日本大使館ではなく、マカティ市にあった大使館へ行った記憶がある。
そのため、不便であるという声が挙がりセブ日本人会の要望で、大使館から領事が出張して日本人会事務所で領事業務を行なうのが年に何回か行われるようになったが、当時のセブの在留邦人数は400人に満たなかったとはいえ不便であることには変わりない。
1998(平成8)年になって『在セブ出張駐在官事務所(Consular Office of Japan in Cebu)』が領事、副領事各1人の体制で開設され、その事務所の入っていた建物が写真-2の中央に写るビルで名称はフィリピンの銀行大手が所有する『メトロバンク・プラザ・ビル』。
場所はセブの山の手の中心フェンテ・サークルからダウンタウンに向かう片側4車線のオスメニャ大通り(ジョーンズ大通り)沿いにあり、後ろのビル2棟はセブで最初に建った40階以上の高層ビルで、そのためか駐在官事務所の入ったビルは低く見えるが16階まである。
このビルはセブに10階以上の建物が3つしかなかった時代の1つになり、当時としてはセブ最高級のオフィス・ビルでそこの何階か忘れたが駐在官事務所があり、まだ規模は小さく、事務所に通じる階段に行き場のなくなった困窮邦人が寝ていたなんていう時代でもあった。
写真左のオレンジ色の帯が塗られた建物はセブのショッピング・モール草分けの『ロビンソン』で、その前のマンゴ―通りは当時のセブ市山の手一番の盛り場になっていて、高級デパートのルスタン、映画館や日本食レストランもあり賑わった通りであった。
しかしセブに大手資本のシューマートが港近くに1993年、アヤラが元ゴルフ場跡に1994年に相次いでショッピング・モールを造ると人の流れは変わってかなり寂れ、渋滞だけが有名になった通りであったが、近年は新しい店が増えて活気を取り戻している。
【写真-3】
セブ出張駐在官事務所はメトロバンク・プラザに7年程居て、2003(平成15)年6月30日になって写真-3の茶色い外壁の『ケッペル・センタービル』に移転するが、所在地はフィリピン財閥の1つアヤラが元ゴルフ場跡を開発した地域である。
ここは『セブ・ビジネス・パーク』という名称でセブの高級ビジネス街、コンドミニアム、ショッピング・モール、ホテルなどが建てられていて、その昔ゴル場跡地で『イルカ・ショー』の興行があり観に行った記憶もある。
開発当時の同地には6階建てのビルが最初に建てられ、それでも大きいビルだなと思っていたが、今は20階を超すオフィス・ビルや40階に達するコンドミニアムが軒を並べるようになって大きいビルだと思っていた建物はすっかり埋もれてしまい、そのビルの前を通る度にフィリピンの発展を感じる。
不動産バブル真っ最中のフィリピンなので、今も同敷地内での建設は旺盛で、今まで緑地として残っていた空き地も次々と建物で埋まっているが、ゴルフ場時代からある巨木が次々と建設のために伐採される憂き目に遭っているのは情けない感じがする。
2014(平成24)年8月1日、セブの出張駐在官事務所は『セブ領事事務所』と改称され、出張という名前は取れたが元々領事は常駐していたから出張という冠詞もおかしく思うが外務省としての理由があるのであろうがやっている仕事は変わらない。
なお、ダヴァオの方だがセブよりかなり早い1973(昭和48)年に在ダヴァオ出張駐在官事務所は開設されていて、ダヴァオ市を含めてミンダナオ島全体で在留届を出している邦人など100人に満たなかった時代で、開設した理由は同地方に住む戦前の負の歴史を持つ『残留日系人』問題があるためといって良い。
ダヴァオの出張駐在官事務所もセブと同じように2014(平成24)年8月1日、『領事事務所』に改称されるが、セブの領事事務所は1、2年以内に『総領事館』に格上げされることが日本の外務省内では決まっていて、セブの邦人社会にも情報は流れていた。
ところが、2016年にフィリピン大統領選で永年ダヴァオ市長を務めていたドゥテルテが当選すると、当時の安倍首相がドゥテルテのご機嫌伺いというより賄賂のような形で、ダヴァオに総領事館設置を決め、2019年1月1日にダヴァオ総領事館を開設してしまった。
邦人数や日系企業数で遥かに少ないダヴァオが先に総領事館になるとはと怒ったのはセブの邦人連中だが、政治的案件ではどうにもならず、また外務省も予算の関係で同時に総領事館開設は出来ない事情もあったが、この総領事館開設の一件を見ても安倍の外交思想は貢物外交ということが分かる。
2年後の2021年1月1日、セブの領事事務所は総領事館に昇格したが、総領事館になると領事定員が倍以上になり、業務も邦人保護以外に外交も加わるようになるが、領事を増員するほど忙しいとは思えないものの、出張駐在官時代から見て在留届け数は8倍の約3000人、日系企業数で4倍の250社を数えた。
【写真-4】
2021年11月22日、セブ総領事館は同じ地域内にある写真-5のビルに移転をしたが、前よりはかなり賃貸面積は広がっていて、同地域にあるショッピング・モールにも前の事務所と同じくらいの距離になっていて、写真-5の道を通り抜けるとかつてのセブ日本人会事務所のあったビル近くに出る。
過日、移転なった総領事館へ行って来たが、写真でも分かるように前後が道なりにカーブして建てられているので領事館もカーブした間取りになっているが、いくらで借りているかは分からないが場所柄かなり高いのではないか。
外交官の職階は三等書記官に始まって二等書記官、一等書記官と順次上がって、次に領事、総領事、大使となるようで本省内部では別に参事官だとか審議官といった別の職階があってその区別は分かり難いが外部の人間にとってはどうでも良いことである。
先に総領事館に昇格したダヴァオの初代総領事は、その後南太平洋にあるソロモン諸島の大使になったというから、かつての出張駐在官事務所時代の所長はここで任期を終えて定年、退官するという人物が配属されていたが変われば変わったものである。
もっとも大使といってもピンからキリで、ソロモン諸島の在留邦人数など100人以下でダヴァオ市内の邦人数より少なく、それで一国を代表する大使などと名乗るのかと外野は思うが、当人にしてみれば大使は大使と出世した気分になり、セブの初代総領事も次は大使かと内心思っているのではないか。

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