日本とアメリカが戦った『太平洋戦争』の開戦は12月8日(アメリカ時間では12月7日)の『オアフ島真珠湾攻撃』から始まったと知られているが、実際はフィリピンとマレイシアへの攻撃の方が時間的には早く、それについて書き綴りたい。
 【日本軍はバタン島にあるこの飛行場を狙って12月8日に上陸、占領】
昨年、フィリピンの最北端にあるバタネス諸島にある島を訪ねたが、その中心になるバタン島に日本海軍陸戦隊が1941年12月8日、午前7時50分頃上陸し、無抵抗で同島を占領した。
真珠湾攻撃での最初の爆撃は7時55分と記録されていて、戦端が開かれたのはバタン島の方が時間的にはわずかに早かった。
バタン島に海軍陸戦隊490人が上陸した海岸は、島の中心バスコの町の港のある狭い湾かと思っていたが、見た限りでは上陸用の舟艇が乗り付けるには少々どうかなという感じが強かった。
最近見た戦史では陸戦隊はバタン島バルアルテ湾に上陸とあり、ここは地図で確認できていないが、バスコの町の南外れに上陸に向いている長い砂浜の海岸があり、そこではないかと思える。
その海岸からは低い丘を越えて町に入れ、当時はフィリピン軍もアメリカ軍も島には駐屯していなかったと思えるし、居たとしてもバスコの灯台を管理して沖合いを通る艦船の見張り程度の兵隊しかいなかったと思える。
そんな、絶海の孤島ともいえるバタン島沖合いに日本海軍の艦船が物々しく錨を降ろし、完全武装の陸戦隊が上陸し町へ入ってきた時は、かなり島民は面食らったと思うが、無血で占領したというからそれほど緊迫した展開ではなかったようだ。
バタネス諸島はルソン島と台湾の間にある島で、その距離は直線で370キロあり、日本海軍は台湾からルソン島へ方面に出撃する飛行機のために、バタン島にあった飛行場を確保するためにイの一番に占領。
この他、8日には同海域ルソン島寄りにあるカラヤン島に陸戦隊1個小隊が上陸、占領し、この島の草原を切り開いて、長さ300メートル、幅200メートルの不時着場を整備した。
また、10日には同海域ルソン島寄りにあるカミギン島を陸戦隊2個小隊が上陸、占領し水上機基地を設営するが、このように海軍は計画的に拠点を造っていたのがこの作戦で分かる。
こういった日本軍の計画的な進め方は緒戦の充実していた時だけであって、やがて負け戦が続くようになると、兵站など作戦の基本を棚上げした精神論が作戦遂行に影を落とすようになる。
なお、フィリピンでも真珠湾攻撃同様の海軍機による攻撃が行われていて、12月8日、台湾の海軍第一航空隊から九六式陸上攻撃機27機、高雄航空隊から一式陸上攻撃機27機、台南航空隊からゼロ戦36機がルソン島クラーク基地を攻撃。
クラーク基地は広大な平地にあり、やがていくつもの飛行場が造られ、その一つの『マバラカット飛行場』は海軍神風特別攻撃隊が最初に編成された場所で、史跡としても価値はあり、小生もそこにあった記念碑を訪ねている。
その当時のクラーク基地はアメリカ軍のアジア最大の飛行場となっていて、その地域を訪れた時もヴェトナム戦争の爆撃機として悪名をはせたB-52が黒い煙を吐きながら編隊飛行していて、その巨大さと異様さにはびっくりした。
しかし、このクラーク基地も近くにあったピナツボ山の大噴火による大量の降灰で基地が埋まってしまい、機能を果たせなくなり、折からのアキノ(母)政権によって、空軍のクラーク基地とスービック海軍基地がフィリピンに返還された。
この戦略的にも重要なクラークとスービックをアメリカがすんなり返したのは、ヴェトナム戦争が終わって前線基地としての意味がなくなり、飛行機の発達によって沖縄に集中した方が効果的といういう戦略のためと思われるが、このフィリピンからのアメリカ軍の撤退が今も続く沖縄の苦しみとなる。
さてクラーク基地攻撃と同じ日に、ルソン島イバ航空基地攻撃のために、九州鹿屋航空隊から一式陸上攻撃機27機、高雄航空隊も一式陸上攻撃機27機の計54機と、台湾の第三航空隊ゼロ戦45機と台南航空隊の零戦九機が攻撃に加わった。
このクラーク、イバ飛行場はアメリカ軍の航空基地として使われ、早々と制空権を得るための速攻だが、やはり開戦当初は機材、士気いずれも満々で両基地にあったアメリカ軍機の損害は半数にも及んだ。
日本海軍機の攻撃は10日にも続けられ、アメリカ軍がルソン島に持っていた航空基地やマニラ湾の艦船、軍港を空爆し、この2回の攻撃でアメリカの航空戦力は封殺された。
一方、日本陸軍の動きだが、ルソン島北端にあるアパリ占領を目指して、陸海軍合同の第一急襲隊が編成され、12月7日、台湾の馬公からアパリへ向けて出港。この時の海軍の陣容は軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻、駆逐艇6隻、掃海艇2隻、漁船5隻という堂々たる陣容だが、漁船が入っていることにおかしさも感じる。
この海軍艦船に加えて輸送船6隻に台湾歩兵第2連隊の主力も同乗してアパリへ向かうが、攻撃船団は10日の未明に、アパリ沖に到着し午前6時までに部隊は上陸し、午後1時半には飛行場を占領する。
この占領時に陸からの反撃はほとんどなかったが、アメリカ軍機が1機ずつ、3回にわたって空爆をするが掃海艇1隻を失うものの被害は僅少で、住民からの抵抗もほとんどなかったようだ。
アパリにはマルコス時代に行ったことがあり、長い海岸線を持つものの、北からの冷たい風が吹く北辺の町という印象であったが、近年、この地域に経済特区が造られて現在はかなり開けたという。
この陸軍のアパリ上陸がフィリピン戦線における日本軍上陸の嚆矢と見られているが、実際は30分ほど早く、別の地域で行われていて、たった30分の時間などどうでもよいと思うが、関係者にとっては一番乗りは昔も今も栄誉と考えているから始末が悪い。
ルソン島に初上陸を果たした部隊は12月7日、台湾の馬公を出撃した陸海軍合同部隊で、同月10日深夜にルソン島北西岸にあるヴィガン沖に到達し、明け方の5時半に陸軍部隊は上陸を開始し、7時にヴィガン飛行場を占拠した。
この攻撃は台湾の歩兵第2連隊と野戦高射砲一個中隊などが海軍の駆逐艦や掃海艇、漁船などに同乗して行われたが、開戦初頭は海軍、陸軍とも共同で作戦を行う意思が濃厚で、これが後に不仲になって作戦に支障を来すなどは誰も思っていなかったであろう。
ヴィガンは世界遺産にもなった古い街並みが残り、小生も訪ねているが、確かに石造りの建物が残る通りがあり、日本軍上陸時にはこの街並みを焼き払う考えもあったようだが回避された。
こうして怒涛の様に押し掛けた日本軍は瞬く間にフィリピン全土を制圧し、バタアン半島での戦い、コレヒドール島の戦いにも勝利し占領、軍政を布き1945年8月15日の敗戦まで日本はフィリピンを蹂躙する。
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