|
違法薬物犯罪者に対して強硬な取り締まりを公約にし、当選したドゥテルテ大統領だが、就任後の7月1日~8月10日までの期間に、司法手続きを無視して警官が違法薬物容疑者に対して射殺した人数が500人を超えた。

こういった強硬な背景はドゥテルテの検事時代と密接な関係があるのではないかと見られている。ドゥテルテは1972年に司法試験に合格。その後1977年から1986年までダヴァオ市で検事生活を送っている。
1986年のエドサ政変によってダヴァオ市の副市長代理に任命されたのを皮切りにダヴァオ市の最高権力者として君臨し、2016年の大統領選で代理立候補という姑息な手を使って当選した。
ドゥテルテの父親はセブ州中部のダナオ市の市長を務め、1959年~1965年には分割前のダヴァオ州知事を務めている。知事の後、1965年~1968年までマルコス政権の閣僚を一期務めている。
このため、ドゥテルテはマルコス家に対して『恩義』があると発言し、2016年の副大統領選で落選したマルコスの息子に対して、同情を表明している。
エドサ政変時にフィリピンを追われハワイに逃亡したマルコスは、1989年、72歳で当地にて憤死。その後、マルコス一族はなし崩し的に復権を果たし、副大統領選には落選したものの息子は上院議員、娘は北イロコス州知事、マルコスの妻イメルダは下院議員と北イロコスに王国を築いている。
このマルコス一族の悲願が、現在故郷で冷凍保存されているマルコスの遺体の『英雄墓地』【写真】への埋葬で、これに対して、マルコス以降の歴代大統領はマルコス側の画策はあっても認めず、ここに来てドゥテルテは英雄墓地への埋葬を認め、埋葬への動きが活発となっている。
マルコスは1972年~1981年までフィリピン全土に戒厳令を布いて独裁政権を強化したが、その戒厳令時期とドゥテルテの検事時代は重なり、ドゥテルテはマルコス政権の意向に沿って反マルコス派を法律という名で弾圧を加えていたのではないかとの指摘が出ているが、まだ実証的な研究は表に出ていない。
ちなみに、戒厳令時代にマルコスの片腕として警察部門を指揮したのが後の大統領、ラモスであった。
マルコスの英雄墓地埋葬の動きに対して、8月14日、各地で埋葬反対集会が開かれ、マニラではリサール公園、セブでは観光場所と知られるサンペドロ要塞のある独立広場で行われた。
特に戒厳令時代に拘束され拷問などを受けた体験者の舌鋒は鋭く、マルコスの英雄墓地阻止の訴えを次々と行った。
英雄墓地は国に尽くした英雄、とりわけ軍事で栄誉を挙げた故人を埋葬する国立施設で、今年初めにフィリピンを訪れた天皇もこの墓地へ表敬している。
マルコスは対日ゲリラの指導者として戦功があり、それによって勲章を得ているが、ゲリラ時代の戦功は客観的な資料が残っていなくて、マルコスが政界に進出するための捏造とまで言われている。
今回のマルコスの英雄墓地を巡って、いかなる世論であってもドゥテルテは埋葬方針を貫くようだが、検事時代のマルコス協力者としての立場が暴露される恐れも出ている。
|