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基礎講座−歴史
スペイン統治
 フィリピンは、1821年のメキシコ独立までメキシコ副王領として統治され、その後本国の直轄地となり、1836年まではインド評議所、その後は植民省の所轄となる。
 1584年に王立アウディエンシア(最高司法院)が開設されると、フィリピン総督がその長官を兼ね、最高権力者として強大な権力を行使することになる。
 スペインは当初、エンコメンデーロと呼ばれる軍人達に地方を支配させるが、職権の乱用により各地で反乱が相次ぐ。教会の訴えでスペイン国王は、悪徳エンコメンデーロの処罰などを命令するが無視される。この制度は17〜18世紀にかけ衰退していき19世紀初頭には完全に廃止される。
 エンコメンデーロが徐々に廃止されていく中で地方行政は、アルカディア(州)を定め、知事として文官である行政官がその統治にあたり、未平定地域は軍管区に分割され軍政官が統治した。そして地方が平定されるにしたがってアルカディアが増えていく。
 それぞれの地方では、バランガイを基に村を作りそれをまとめて町とし、それらの町村長には首長層が就いた。町村長は最初世襲制だったが後に選挙制となる。また、町はカトリックの教区と重なり教会は行政に積極的に関与することになる。
 フィリピン政庁の財源には徴税の他にガレオン貿易の関税収入とメキシコ政庁からの補助金がある。ガレオン貿易は季節風を利用したマニラ・アカプルコ間の貿易で、1572年から始まりスペイン人がこれを独占した。後に英、米の脅威の中で衰退し19世紀初めに廃止される。この貿易に絡んで、フィリピンで中国人が活躍するが、スペインは彼らをたびたび弾圧する。また、スペイン本国では、経済的な重荷でフィリピン放棄の提案が何度か出されるが、キリスト教伝道の使命をもってこれを却下する。
 フィリピンは、イギリスやフランスなど諸外国の攻撃を受けるが、特にスペインから独立したオランダの攻撃は執拗で、1600年の第1回攻撃から、モロ族とのイスラム同盟後の反目によりホロ島を攻撃した1848年まで続く。1756年に欧州で起こった7年戦争の際、イギリスは1762年スペインに宣戦布告し、東インド会社の軍がマニラを攻撃、占領したが、2年後に撤退する。その後スペインはフィリピンの植民地経営の建て直しを迫られる。
 イギリスのマニラ占領後4人目の総督となったホセ・デ・バスコは総合経済計画を発表、農業を振興し、1782年タバコの強制栽培、専売制度を行う。そして1785年に貿易の独占を目指して王立フィリピン会社を設立するが1834年にマニラが自由貿易港となり廃止される。1809年にマニラに初めてイギリスの商館が設立され、その後50年間でイギリスを中心にアメリカ、フランス、スイス、ドイツの商館15が設立された。英、米、仏、独など列強による世界経済の活発化によりフィリピンでは主要輸出品である農産物の需要が高まり、大規模農場経営が進みスペイン人以外にもスペイン人や華人と混血したフィリピン人(メスティーソ)による大土地所有が進む。そうして資産家、知識人となった彼らは次第に民族主義に目覚めていく。
 フィリピン人はスペイン統治時代を通じて各地で多くの反乱、暴動を起こすが、それらは多くの場合圧政に対する反動であり、統一的、民族的なものではなくスペインの支配に決定的なダメージを与えることはできなかった。またフィリピン人だけでなく中国人も1603年の第1回を皮切りに1762年までに5回の反乱を起こしている。日本人による反乱も、1606年と翌年の2回ある。


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