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基礎講座−歴史
プロパカンダ運動から革命へ
 1869年、スエズ運河が開通すると、スペイン人を初め多くの欧米人がフィリピンにやってくるようになるが、彼らは物だけではなく自由主義や啓蒙思想なども一緒に持ち込んだ。
 スエズ運河開通の前年スペインでは革命が勃発。暫定共和国が成立しフィリピン総督に自由主義者のカルロス・マリア・デ・ラ・トレが人々の歓迎の中就任した。彼は、農民暴動を武力ではなく平和的に解決し、その他にも多くの業績を残すが、1870年本国で立憲君主制が復活し、それに伴ってフィリピンでも反動政権が誕生し、改革は水泡に帰した。
 1872年、カビテの暴動に関連して無実のフィリピン人神父3人が処刑されるというゴンブルザ事件が起こる。政庁がフィリピン人神父や知識人に対する弾圧を強めていく中、身の危険を感じた知識人達は諸外国へ逃れ、平等、言論出版の自由、代表権の復活(19世紀前半の一時期フィリピンはスペイン議会に代表を送っていた)などを訴えていくようになる。しかし、この段階ではまだ独立という夢は持っていなかった。
 プロパカンダ運動は、ホセ・リサールのフィリピンの修道会を批判する小説「ノリ・メ・タンヘル(我に触れるな)」の発表を機に大きく発展する。1889年にはスペインで「ラ・ソリダリダート(団結)」という機関誌を発刊し、民主的な権利を要求していく。しかしホセ・リサールは海外での運動に限界を感じ、1892年フィリピンに帰国。総督と会見し家族の釈放には成功するが、ボルネオ植民計画は却下される。彼は祖国救済のため団結することを唱って「フィリピン連合」を結成するが、4日後反逆罪で逮捕され流刑となる。一方、「ラ・ソリダリダート」も資金難などで行き詰まり1895年に廃刊となる。こうしてプロパカンダ運動は終焉を迎える。
 ホセ・リサールが流刑となった同じ日、労働階級出身の知識人ボニファシオは秘密結社カティプナンを3人で結成する。これにより独立へ向けた武力革命が動き出す。そしてその計画が当局に露見する頃にはその勢力は10万を数えるほどになっていた。
 1896年8月、その存在が明るみに出ると、ボニファシオはマニラ郊外のバリンタワクで武装蜂起を決行(バリンタワクの叫び)。これを契機にマニラ周辺地域で戦いが始まる。特にカビテではアギナルドの一団が目覚ましい活躍をする。しかし、次第に戦局は革命軍に不利となり、その年の12月にはリサールが処刑される。しかしこの処刑は人々の心に火をつけることとなり、革命はさらに拡大していく。そうした中で、アギナルドとボニファシオの主導権争いが起こり、作戦に失敗するボニファシオに対して、軍事的才能で人々のヒーローとなりつつあるアギナルドがボニファシオを処刑して主導権を握る。
 1897年、アギナルドはビアクナバトにてスペイン軍と協定を結び、補償金の一部を手に香港に逃れる。しかしスペインは約束の補償金の一部しか支払わず、革命軍側も多くが武装解除に応じず、各地で反乱、虐殺が起こった。マカブロスは、ルソン中部に自ら臨時革命政府を打ち立て抵抗した。
 1898年4月24日、米西戦争が勃発すると、翌25日には香港のデュイ准将にフィリピン攻撃命令が出され、アメリカはマニラ湾海戦で勝利し、陸軍を待つためマニラ湾を封鎖した。一方、スペイン側は内陸部へ逃げ込み、フィリピン人に対して懐柔策を行うが失敗。アギナルドは米側と接触、協力を約束し、武器を購入して米軍艦で帰国。多数のフィリピン人志願兵を得て6月にはカビテで独立を宣言する。同月下旬にはルソンのほぼすべてを掌握した。一方、アメリカは遠征隊の到着を待って8月にマニラを占領したが、フィリピン軍のマニラ入城を拒否したことにより米比間に亀裂が走る。
 アギナルドの革命政府は9月にブラカンのマロロスで革命議会を開催し、翌1899年1月にマロロス憲法が公布され、第1次共和国が誕生した。
 1898年12月、アメリカとスペインはパリ条約を締結、アメリカはスペインに2千万ドルを支払い、フィリピンをアメリカの領有とする。その際、マッキンレー大統領は軍政布告の中で友愛的同化を宣言し、できる限りの民主化を保証し、寛容な支配を標榜した。
 しかし、アメリカ領有にフィリピン側は激しく抗議し、1899年2月、米比戦争が勃発する。

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