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基礎講座−歴史
アメリカの支配
 1899年2月に米比戦争が勃発、3月31日には首都マロロスが陥落。各地を転戦するアギナルドは11月、遂に正規軍を解散、以降ゲリラ戦を展開するが翌年アギナルドは逮捕され、アメリカに忠誠を誓いアメリカの主権を認めた。1902年、ルーズヴェルト大統領は、フィリピン平定を宣言したが、その後も各地でゲリラ活動は続く。1915年、スルー王国は協定を結びアメリカの支配下に入る。
 アメリカは、1899年に第1次フィリピン委員会を派遣、1900年の文官による第2次フィリピン委員会(タフト委員会)は立法権と行政権の一部を行使する権限を持ち、1901年にはタフトが初代民政総督に任命され、民政府が発足する。「1902年フィリピン法案」が米議会で成立すると、アーサー・マッカーサー軍政長官にあった行政権も民政長官へ移り、国会の開設や米議会への代表派遣(2名、投票権無し)を約束した。
 1907年、第1回総選挙が行われ、即時独立を求めるナショナリスタ党が勝利し、10月にフィリピン議会が発足する。しかし、上院の役割を果たすフィリピン委員会との軋轢は激しく1911、2年には予算が成立しないという事態を招く。1912年に米議会に提出された、将来の独立を視野に入れたフィリピン自治法であるジョーンズ法が、ケソン駐米比委員らの努力により1916年にようやく成立すると、国会はフィリピン人議員による二院制となり、選挙でナショナリスタ党が大勝し、上院議長ケソン、下院議長オスメーニャ(ナショナリスタ党首)となる。
 フィリピン人に自治を与え独立を擁護するハリソン総督は、役人や委員会のフィリピン人化を進め民政をフィリピン人に委任するようになるが、自治化に反対するウッドが総督になると、彼は議会に対してたびたび拒否権を発動、対立が深まる。1923年には、閣僚、国家評議会委員全員が辞任するという「内閣の危機」が起こる。しかし、1927年ウッドの死後、両者の関係は安定的になる。
 フィリピン議会が発足する以前の1900〜1905年の間、民族主義は弾圧され、米との連合を唱える親米のフェデラル党のみが認められていたが、1906年アイデ総督による、独立を綱領とする政党の禁止令が解除されると民族主義政党が多数結成され、それらが合同してナショナリスタ党となった。またフェデラル党も改名し独立を綱領とする。これらによりフィリピンは独立をアメリカに要求していくが、第1次大戦後はさらに活発になる。これに対しアメリカの態度が独立容認に変わってくるのが1929年の大恐慌の頃である。米比間の経済関係は、関税の撤廃などにより緊密な関係にあったが、恐慌によって米国内業者の保護などが議論されるようなり、米議会は1933年に10年間の準備期間の後、独立を認めるというヘア・ホーズ・カッティング法案を可決する。これはケソンの反対により比議会で否決されるが、ケソンは自らの手柄とするためアメリカに赴き、一部を修正したタイディングス・マクダフィー法案を持ち帰り、比議会はこれを受諾する。
 これにより、憲法議会による憲法のもと10年間コモンウェルスを置き、1946年7月4日に独立を宣言して共和国とすると定められた。1935年5月、新憲法が国民投票により批准され9月の総選挙にてケソンが大統領に選ばれコモンウェルスが発足した。この選挙では、21歳以上の読み書きのできるすべての男性に選挙権が与えられ、1937年からは女性にも参政権が与えられる。

 アメリカは初め、プロパカンダ運動を主導した都市部のエリート知識人達を協力者としたが、結局革命戦争を主導した地方の地主エリート達との協力によってやっと安定的な支配が可能となった。スペイン時代の大土地所有者は、アメリカ支配時代に益々その力を伸ばしていった。一方、小作農や労働者達の貧困は解消されず、各地で農民、労働運動が激化し、共産主義が根付いていくこととなる。


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