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基礎講座−歴史
日本の占領から独立まで

 1941年12月8日、日米開戦と同時に日本軍はフィリピンに押し寄せてくる。当時フィリピン軍は同じ年の7月にアメリカ陸軍に統合されアメリカ極東軍(USAFFE)となっていた。
 26日ダグラス・マッカーサーはマニラ無防備都市宣言を発し、コレヒドールへ後退。翌年1月2日、日本軍はマニラに無血入城し、翌3日に本間中将による軍政布告が出される。2月にケソン、オスメーニャはコレヒドールを脱出し、オーストラリア経由でアメリカ本土に亡命、1942年5月に亡命政府を樹立、ケソンの死後はオスメーニャが大統領となる。
 3月にマッカーサーはオーストラリアに逃れ、4月9日にバターンが陥落(バターン死の行進)。5月6日にはコレヒドールが陥落、翌7日ウェイライト将軍がラジオで降伏宣言、これによりフィリピンでの組織的な抵抗は終わりを告げ、各地でゲリラ戦が展開される。
 日本の軍政部は、マニラ市長のバルガスを委員長にフィリピン行政委員会を発足させ司法、行政にあたらせるが、各々の部署には日本人顧問が目を光らせていた。1942年8月にはすべての政党を解散させカリバピ(新生比島奉仕団)を発足させる。これは後の1944年5月に人民党に改組され、唯一の政党として日本に利用される。1943年6月の帝国議会で、東條首相は年内のフィリピン独立を明言し、これを受けカリバピは日本の命令により独立準備委員会を設置し、ラウレル委員長のもと憲法を起草し(1935年の憲法と類似)、9月のカリバピ総会でこれを批准、同月選挙を行い、ラウレルが大統領に選ばれ10月4日第2次フィリピン共和国が発足する。しかし実質は軍政下と変わりはなかった。
 戦前(フィリピン人の中で)、反米の民族主義者達はこれを駆逐せんが為に日本に期待を寄せた者もあったが、実際に日本の占領下では、それらの期待は裏切られることになる。軍政の経済政策はことごとく失敗し、フィリピン人の生活は窮乏の一途をたどり、ゲリラ活動は益々激しくなる。
 戦局は次第にアメリカに有利になり、1944年10月遂にマッカーサーはレイテに再上陸。翌年2月マニラ入城を果たす。1945年8月15日、戦争が終結すると、日本に亡命していたラウレルは17日に共和国を解散する。フィリピンでは9月3日に山下将軍が降伏。
 オスメーニャはマッカーサーとともに帰還し、1944年10月にはタクロバンを臨時首都としてコモンウェルスを再開。翌年2月にはコモンウェルスはマニラに帰ってくる。
 1946年コモンウェルス最後の選挙が行われ、ナショナリスタ党から分裂したリベラル党のロハスが勝利、6月の議会でアメリカのフィリピン復興法・通商法(ベル通商法)が承認される。タイディングス・マクダフィー法案で定められた期日の7月4日、ロハスは第1代大統領に就任、独立を宣言。フィリピン共和国が誕生した。


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