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基礎講座−歴史
独立後のフィリピン

 フィリピンの独立は自ら勝ち取ったというより与えられたという面が強く、独立後もアメリカの強い影響下に置かれた。ベル通商法ではアメリカ人の内国民待遇、28年間の特恵関税などが定められ、軍事的には47年の軍事基地協定(米軍の駐留)、軍事援助協定また51年の相互防衛条約が締結された。エリートによる寡頭支配は存続し、政治、経済、社会の構造はアメリカの植民地時代と大きく変わることはなかった。
 日本の占領時にゲリラ活動をしていたフク団(フクバラハップ=抗日人民軍、後に人民解放軍)は共産党の指導のもと農地解放を要求するが、1946年の選挙で指導者タルクら2人が下院に当選したもののロハス政権に議席を剥奪されるとタルクは武力攻撃を仕掛ける。1948年、クラーク基地で演説中に倒れたロハスの跡を継いで大統領になったキリノは、アメリカの反共政策にしたがって、マグサイサイを国防長官に据えフク団を鎮圧する。
 1947年の地方、上院選挙ではリベラル党が大勝するがこの時不正が横行し、1949年の大統領選挙に至っては、キリノ陣営の警察、私兵を動員した露骨な妨害、票の水増しなど腐敗は目に余るものであった。こうしたことによる国民の不信から1951年の地方、上院選挙ではナショナリスタ党が勝利し、マグサイサイもキリノ派の不正を批判してナショナリスタ党へ移籍し、1953年の大統領選に出馬、勝利した。
 この頃から反米ナショナリズムが台頭し始め、レクト上院議員は親米マグサイサイを批判し、通商法や基地協定の改定を求めていく。その勢いは次第に広がっていき1955年にはベル通商法が改正(ラウレル・ラングレー協定)され、翌年にはアメリカの意に反して日本と賠償協定を結び、1966年の基地貸与期間の短縮(ラモス・ラスク協定)につながっていく。飛行機事故で死亡したマグサイサイの後を受けたガルシアはフィリピン人第一主義による保護主義政策をとったが貿易赤字が膨らみ、1961年の選挙ではリベラル党のマカパカルが大統領となり、農地改革や為替管理の自由化など自由化路線をとる。

 1950年代に勢いを失っていた大衆運動は60年代に入ってベトナム戦争を背景に学生運動が激化、反米デモを繰り返した。その先頭に立った「民族主義青年同盟」を立ち上げたシソンは、1968年共産党を再建し、フク団の残党ダンテによって共産党の軍事部門である新人民軍(NPA)が創設された。同年、ミンダナオのコタバトでイスラムの分離独立運動が起こり武力衝突に発展した。後のマルコス大統領による戒厳令後にはミスワリのモロ民族解放戦線(MNLF)が運動の主導権をとり政府軍との間で内戦状態となる。
 1965年の選挙は、リベラル党の指名争いでマカパガルに敗れたマルコスがナショナリスタ党へ鞍替えし大統領となる。マルコスはコメの自給や工業化の推進、インフラの整備で業績を残して1969年再選されるが、1935年憲法の大統領三選禁止条項を前に政権延命をはかり、1972年9月、戒厳令を布告。議会を停止、反マルコス勢力を一斉に逮捕した。翌年1月には大統領制、議院内閣制の混成方式を採用した新憲法を公布した。
 1978年暫定国民議会選挙、1980年地方選挙、1981年戒厳令解除、大統領選挙と独裁政権のイメージを払拭しようとしたが、1979年の第2次石油危機に端を発する世界同時不況は、貿易赤字の拡大、債務負担の増大を招き、クローニーと呼ばれるマルコス、イメルダ一族とその取り巻きによる利権漁りなどで経済状況は悪化の一途をたどり、1983年マルコス最大の政敵、ベニグノ・アキノ元上院議員が帰国直後に空港で暗殺されるという事件を機に立場や階層を越えた広範な反マルコス運動が展開される。追い込まれたマルコスは組織力と資金力、さらには野党の分裂に頼んで1986年2月に繰り上げ大統領選挙を行う事で生き残りをかけた。
 2月7日の選挙は集計を巡って大混乱となり、翌日にはアキノ元上院議員の未亡人であるコラソン・アキノが勝利宣言をするが15日、国民議会は与党単独でマルコスの当選を宣告。しかし、カトリック司教会議は不服従を訴え、アキノも非暴力、非服従の運動を展開する。こうした中で22日午後、エンリレ国防相、ラモス参謀総長代行はマルコス辞任を訴え決起した。その夜、シン枢機卿の呼び掛けで市民の人垣が反乱軍の基地を取り囲んで正規軍の攻撃から守った。25日、アキノは大統領就任式を行う。同日マルコスも官邸で就任式を行うが、正規軍の寝返りが続出する中、遂にアメリカに見限られハワイに亡命する事となった。いわゆる「二月革命」(ピープルパワー革命、EDSA革命)である。


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