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基礎講座−歴史
日・比関係史

1:鎖国令以前

 スペイン来寇以前から日本人商人が、鹿皮などを求めてやって来ており、ルソン島北部には日中連合の倭寇の基地があった。貿易が拡大し日本人が増えるとフィリピン政庁は取り締まり上から日本人居住区を設定、1590年代に日本人町が成立した。徳川幕府とフィリピン総督の合意により朱印船貿易が始まると、貿易はさらに拡大し1620年代に日本人町はおよそ3000人となっていた。また貿易以外でも日本人は、スペインのカンボジア、モルッカ遠征や中国人反乱の鎮圧などに傭兵として活躍した者があった。
 日本がスペインに対して入貢を強要したり、難破したスペイン船を没収したりしたほか、キリスト教徒の弾圧、またフィリピン遠征計画が伝えられるとフィリピン政庁は日本人を弾圧、これに対し1606年と1607年の2回、日本人による反乱が起こる。
 徳川時代になってキリスト教弾圧が厳しくなると、マニラに多数の日本人キリスト教徒が避難してくる。1614年には高山右近がマニラに追放されてくる。キリスト教徒が増えると、それまでの商人中心の日本人町の隣にキリスト教徒を中心とした日本人町ができる。1936年の鎖国令以降は日本とスペインとの関係は断絶状態になり、日本人町は衰退していく。

2:明治から太平洋戦争まで

 フィリピンで独立の気運が高まると、維新後軍事大国に成長していた日本に援助を期待するようになる。カティプナンによる武装蜂起の数ヶ月前、日本海軍練習艦のマニラ入港に際して、カティプナンは日本に支援の要請をしている。
 米西戦争勃発によりアメリカの支援で独立宣言するが、直後に米比戦争が起こる。アギナルドの革命政府は日本からの支援を期待して外交官を派遣。日本政府の支援はかなわなかったが、一部有志の支援を受けて武器の調達に成功。しかし武器を積んだ布引丸は沈没した。
 その後革命軍は壊滅、アメリカの植民地となるが独立を求める大衆運動、サクダル党の蜂起の際も日本の支援が期待された。このように反米ナショナリズムの立場から、親日派フィリピン人が数多く活動していた。

 マニラに日本領事館が開設されたのは1888年で、当時日本人は30人程だった。10年後フィリピン革命の最中に日本人会が設立されている。
アメリカ統治が始まると、1903年からベンケット道路工事など建設ブームに乗って多数の日本人労働者がやってくる。マニラ麻栽培によるダバオの日本人社会はマニラを上回る規模に成長する。
 また日本人小売業者が活躍するようになると、満州事変を契機に中国人による排斥運動が起こるが、日本企業との連携によりこれを乗り越える。日本企業はマニラ麻や鉱山開発などを中心に進出してきた。第2次大戦前には2万人以上の日本人がフィリピンに住んでいた。現在ではマニラに1校だけの日本人学校もダバオを中心にフィリピン全体で18校あった。

 日本軍の占領によってそれまでアメリカ頼みであったフィリピン経済は破綻。軍による圧政や残虐行為、名ばかりの独立、また民間の日本人も軍への協力を余儀なくされ、フィリピン人と日本人の間には大きな溝ができ、根強い反日感情が形成された。
 
3:戦後

 戦後世界が冷戦へ向かう中で、自由主義陣営として日本を重視するアメリカは、対日賠償放棄を意図するが、反米ナショナリズム勢力が拡大するフィリピンでは対日賠償を求め、日本側は賠償を呼び水に貿易拡大をねらって交渉を進め、1956年に日比賠償協定が調印され、これを経て日比国交正常化がなった。賠償支払い後は政府開発援助が始まる。

 60年代に入って日本企業の進出が始まるが、1960年に調印された日比友好通商航海条約は対日不信もありなかなか批准されなかった。ところが1973年、日本との通商拡大をねらうマルコス大統領の強権により批准される。アジアの中で特に大きかった反日感情が、マルコスの対日政策によって好転する。反日デモと暴動に迎えられた田中首相の東南アジア歴訪もフィリピンでは歓迎されている。
 こうした中70年代に日本企業の進出は加速、100近くの企業が進出した。この頃に日本人商工会議所が設立される。80年代になると進出企業の伸びは鈍化、撤退企業も目立つようになる。ラモス政権で改善されたとはいえ、現在でも治安の悪化や政情不安などが懸念されている。


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