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基礎講座−歴史
フィリピン・ムスリム関係史

フィリピンのイスラム教徒

 フィリピンを植民地としたスペイン人は、フィリピンのイスラム教徒を「モロ」と蔑称して差別した。「モロ」とは、8世紀にイベリア半島を征服した北アフリカのイスラム教徒ムーア人と同一視して呼んだ名称。その後フィリピンのイスラム教徒は「バンサモロ」といわれるようになった。

<イスラム教の伝来>

 フィリピンにイスラム教が伝えられた時期ははっきりしないが、10世紀頃にはアラブ商人が来訪していたともいわれる。
 14世紀頃からイスラム教が浸透していったとみられ、14世紀末頃にスマトラからラジャ・バギンダがスルー諸島に来て原住民を支配していったとされ、15世紀中頃にジョホールからハシム・アブバカルが来てラジャ・バギンダの娘と結婚、スルタン(イスラム君主)としてフィリピンで最初のイスラム王国であるスルー王国をホロ島に建国した。その後スルー王国はスルー諸島を中心に版図を拡大、18世紀頃にはバシラン島、タウイタウイ島、サンボアンガ半島、パラワン島、サバ(現マレーシア領)を領有していた。
 一方、16世紀初頭にはジョホールから来たシャリフ・カブンスワンがマギンダナオ族を征服、スルタンとなりミンダナオ島で初めてのイスラム王国をコタバトに建設した。後にマギンダナオ族はマギンダナオ王国やブアヤン王国などとしてミンダナオ島のほぼ全域を支配する。
 政教一致のイスラム王国ではスルタンがすべてを統率、バランガイ(最小行政区)として現在に名残をとどめる村落はダトゥと呼ばれる首長が治めた。スルタンの血統が途絶えた場合にはダトゥの中からスルタンが選ばれるという。
 インドネシアやマレーシアなどと同様、イスラム法の他に古くから口承で受け継がれてきたアダットと呼ばれる慣習法に従って村落社会が形成されていた。
 
<抵抗の歴史>

 スペイン人がフィリピン諸島に到達した頃にはミンダナオからビサヤ地方、ルソン島でもマニラ湾周辺までイスラムの勢力下にあった。
 1521年にマゼランがセブにやって来たとき、周辺の首長はこれに従いキリスト教を受け入れたが、セブの対岸にあるマクタン島の首長ラプラプはこれに抵抗、マゼラン隊はマクタン島に攻め入ったが撃退され、この際にマゼランは戦死した。
 マゼラン以降、スペインはメキシコから続々と遠征隊をフィリピンに送る。1565年、レガスピ遠征隊はセブを征服、隣のボホール島でレガスピは地元の首長シカトゥナと互いの血を注いだカップを飲み分かち盟約を結んだ。この「血盟」は、国民的画家ホアン・ルナの代表作にも描かれフィリピン人に幅広く知られる出来事だ。
 1571年、レガスピはブルネイの影響下にあったマニラのラジャ・ソリマンを退け初代フィリピン総督となり、首都をマニラに定めた。
 その数年後、スペインはミンダナオ地方征服に乗り出すが、ミンダナオのイスラム教徒は激しく抵抗、逆にビサヤ地方を攻撃することもあった。また、後には反目するもののスペインと敵対するオランダと同盟を結ぶなどしてスペインに対抗した。こうしてスペインは結局イスラム教徒を完全に征服することはできなかった。
 ミンダナオのイスラム教徒はスペインからフィリピンの統治を譲り受けたアメリカに対しても抵抗、1899年の比米戦争勃発とほぼ同時にモロ・アメリカ戦争が始まる。中でも女性や子供を含む600人が虐殺されたダホ山の戦い(ホロ島、1906年)は有名で、現在でもタウスグ族には強い反米感情が残っている。1915年、スルー王国はアメリカと協定を結んでついにその支配下に下った。
 日本軍の占領時代、ミンダナオのイスラム教徒も抗日人民軍(フクバラハップ)と同様に日本軍に抵抗、「モロ大隊」と呼ばれ戦ったが、アメリカ極東軍は日本軍を駆逐した後に彼らがアメリカにも矛先を向けると確信、モロ大隊に武器を供給しなかったという。
 
<イスラム教徒の現状>

 1960年代の学生運動や共産主義運動の激化と時期を同じくしてミンダナオでもイスラム教徒に分離独立の気運が高まる。キリスト教徒の入植による対立が激しくなる中で68年にコタバトのマタラム知事らイスラム教徒の政治家らがイスラム共和国建設を目指して「ミンダナオ独立運動(MIM)」を結成、翌年には多くの若者がマレーシアで軍事訓練を受けるようになったという。この頃に「モロ民族解放戦線(MNLF)」が結成され、マレーシアで軍事訓練を受けた元フィリピン大学講師のヌル・ミスアリを議長に迎えた。
 イスラム教徒とキリスト教徒の対立が激化する中、ミンダナオへのキリスト教徒の入植を押し進めたマルコス大統領はついに72年、戒厳令を布告して独立運動を非合法化、武力鎮圧に打って出る。
 これを機にMNLFの存在が表面化、イスラム分離独立主義勢力はそれまでの局地的な反乱からバンサモロ軍を創設したMNLFに糾合、内戦状態に突入する。戦闘は激化の一途をたどり、イスラム諸国の圧力もあって問題が国際化するとマルコスは自治権付与を決意。76年、フィリピン政府とMNLFは停戦に合意しトリポリ協定を結んだ。
 しかし、自治区設置に関する住民投票をめぐって再び対立、MNLFは投票をボイコット、和平への道は遠のいた。
 この頃からMNLF内部で路線の対立が表面化、77年にサラマット派がMNLFから離脱、84年に「モロ・イスラム解放戦線(MILF)」を正式に結成する。
 86年の革命後の新憲法にはイスラム教との自治に関する規定が盛り込まれ、アキノ政権の分離独立放棄を条件とした和平交渉の呼びかけにミスアリが応じ、89年には自治基本法が成立、同法をめぐって混乱したもののミンダナオの13州9市で住民投票が実施された。
 しかし、自治を受け入れたのはイスラム教徒が多数を占める4州(南ラナオ州、マギンダナオ州、スルー州、タウイタウイ州)だけで、これに対してMNLFはトリポリ協定による完全自治ではないと反発したものの、翌90年にムスリム・ミンダナオ自治区(ARMM)が正式に発足した。
 MNLFは戦闘を継続しつつ条件付きで和平交渉に応じる用意があるとしたが、政府側はこれを拒否、膠着状態に陥る。
 フィリピンの発展には外資の導入が不可欠だと考えるラモスが92年に大統領に就任すると、翌93年からジャカルタで本格和平交渉がスタート、暫定的な休戦協定が結ばれる。
 94年と95年に続いて96年の第4回和平交渉ではMNLF兵士の国軍編入問題や自治区に関する住民投票の実施、南部フィリピン平和開発評議会(SPCPD)設置などで最終的に合意、9月2日に和平協定が調印された。なお、過去を含めた和平交渉にはイスラム諸国の尽力が特筆される。和平協定調印当日には日本政府も歓迎の意と支援の検討などを表明している。
 第4回和平交渉を前に政府側はミスアリ議長をARMMの知事選挙において与党候補として推すことで合意、7月の選挙を経て和平協定調印後にミスアリの当選が決まる。また、ミスアリはSPCPDの議長にも就任した。
 01年の住民投票の結果、これまでの4州に加えバシラン州(イサベラ市を除く)とマラウイ市がARMMに編入された。
 しかし、ARMMの権益を一手に牛耳るミスアリをミンダナオ発展の最大の障害と考えるアロヨ政権はミスアリ外しを画策、MNLFフシン副議長を01年のARMM知事選挙で支持、武装蜂起に打って出たミスアリを反乱罪で起訴した。
 一方、MILFは開発プロジェクトへの攻撃など戦闘を継続する。アロヨ政権で停戦協定が結ばれたが、戦闘が止む気配はない。
 また、90年代初頭からMNLFに不満を抱く離脱組がジャンジャラニのイスラム原理主義グループ「アブ・サヤフ・グループ(ASG)」に合流、外国人を含む人質誘拐および殺害などイスラム教徒からも非難を浴びており、政府は徹底的な掃討作戦を展開している。
 こうしたこれまでの紛争からミンダナオの開発は遅れ、イスラム教徒の居住地域は国内で最も貧しい地域のひとつとなっている。世界銀行やアジア開発銀行などの国際金融機関、日本やアメリカなどの外国政府もミンダナオ開発に積極的だが、何よりも紛争解決が開発促進の重要条件とされる。
 
<イスラム少数民族>

 フィリピンのイスラム少数民族はマラナオ族、マギンダナオ族、イラヌン族、タウスグ族、ヤカン族、サマ族、サンギル族、カアガン族、コリブガン族、パラワン族、モルボグ族の11種族に分類され、この中でも最盛期にはミンダナオ島のほぼ全域を支配していたマギンダナオ族、ラナオ湖周辺のマラナオ族、スルー諸島のタウスグ族が特に有名。
 アメリカ統治時代からマルコス時代に至るまでキリスト教徒のミンダナオへの移住が盛んに行われた結果、イスラム教徒が多数を占めるのはスルー諸島とミンダナオ西部の一部だけとなった。
 イスラム教徒の人口はマニラ首都圏や他の地方のイスラム教徒も含めて276万9,643人と全人口の4.6%(1990年、国勢調査)に過ぎない。
 フィリピン人にとって「モロ・モロ」と「ジハード(聖戦)」がイスラム教を連想する最もポピュラーな言葉だといわれ、イスラム教徒とキリスト教徒の戦いの歴史を演じる「モロ・モロ」劇はルソン島でも人気の芝居だという。


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