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 スペイン植民統治時代に成長した地方の大土地所有エリート層は、アメリカ植民時代にさらに成長、その勢力を強固なものとする反面、小作農や労働者など貧困層が増大するという社会背景に共産主義勢力伸張の原因がみられる。
1929年、社会党が結成され、翌1930年に共産党(PKP)が結成された。1932年に非合法化されると、運動は社会党が指導するが、1936年末にケソンは共産党幹部を釈放、1938年には社会党と合併、各農民、労働団体を指導する。
 日本占領時、ルソン中部で共産党指導のもと抗日農民ゲリラ、フクバラハップ(抗日人民軍)が結成され、日本軍に抵抗する。米軍のマニラ入城直後、フク団幹部が米軍に一時拘束される。戦後初の総選挙で当選した指導者タルク他フク団幹部の議席が剥奪されると、フク団による反乱が起こり内戦の様相を呈し、1948年にフク団は非合法化される。
 PKPが政権の打倒を決議すると、危機感を強めた米の意向を受け、マグサイサイ国防相らによるフク団壊滅作戦が始まる。フク団は衰退の一途をたどり50年代半ばにはほぼ完全に鎮圧される。1957年には破壊活動防止法が成立する。
 60年代に入り、それまで沈静化していた大衆運動が、ベトナム戦争を背景とする学生運動により盛り上がる。そうした中、1968年シソンはソビエト寄りのPKPと袂を分かち、毛沢東主義のフィリピン共産党(CPP)を創設。翌年にはその軍事部門として、フク団の残党ダンテを中心に新人民軍(NPA)が組織される。1973年には民主フィリピン運動傘下の大衆団体が結集して、CPP・NPAの統一支援組織、民族民主戦線(NDF)が結成された。一方PKPは恩赦を得、農地改革などでマルコスと協調関係を築く。
 1972年の戒厳令以後、CPP・NPAは政府軍の攻撃や幹部の逮捕によって打撃を受けたが、経済の停滞を背景に勢力を伸ばし80年代に入って活動を活発化させる。またアキノ暗殺以降は非共産系の大衆団体との連携の動きもみられたがこれは成就しなかった。
 1985年には急進左派勢力が合法闘争組織、新民族主義同盟(バヤン)を結成、NDFの影響を強く受ける。バヤンは1986年の大統領選時にはボイコット運動を展開するが、情勢に影響を与えることは出来なかった。二月革命後のアキノ政権は国民和解を掲げてNDFとの和平交渉へ動く。政権参加を最終目標にあげるNDFの影響下にあるバヤンも議会闘争を目指して合法政党、人民党を結成する。しかし、両者の和平交渉は国軍の妨害によって決裂、国軍の影響を強く受けるアキノ政権は右傾化を強め、泥沼の内戦状態にはまりこむ。CPPは10年以内の政権奪取を掲げ、NPAは攻勢を強めるが、革命の展望が開けるわけではなかった。
 外資導入のために政情安定化をはかるラモス政権は、共産党を合法化しNDFと和平交渉開始で合意。しかし、CPP内部で合法闘争を主張する反シソン派が台頭、周辺グループにも広がり共産主義勢力は分裂。政府に交渉窓口として認定されたNDFのシソン派との交渉は難航する。特赦の宣言や国軍の作戦により1994年8月には参謀総長はNPAに対して戦略的勝利を宣言した。同年、反シソン派のラグマンは、フィリピン労働者協会を母胎に革命労働者党(RPP)を結成、700程の労働組合を傘下に活動。一方ラグマンのもとで活動していたテログループのアレックス・ボンカヤオ・ブリゲード(ABB)は相次ぐ幹部の逮捕で弱体化する。
 エストラーダ政権に変わると、拉致事件を契機に交渉相手をそれまでのCPP・NDF・NPAから、反シソン派のRPP・革命労働者軍(RPA)・ABBに変更するが、様々な問題から交渉は進展しない。またNDFとの対立も深刻になる。
 アロヨ政権はこれまでの方針を転換、経済に与える影響を考慮して積極的な和平交渉を進めている。

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