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上院議員プロフィール(与党)
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 フランクリン・ドリロン
image イロイロ市出身、父親はフィリピン・ナショナル・バンクの行員。公立学校から国立フィリピン大学法学部に進学、69年の司法試験では3位の成績で合格。
 有名法律事務所に勤務した後、86年からアキノ政権下で労働長官と司法長官を務める。91年には官房長官に任命される。
 92年、ラモス政権で司法長官。司法の汚職を排斥する一方で判事や検事の報酬を増やし、貧困層に無料法律サービスの機会を与えた。
 95年上院初当選、後に院内総務を務める。司法制度の改革に力を注ぎ、司法制度改革、政府の透明性から官僚主義の弊害除去および経済改善まで幅広く手掛ける。議員としては上院聴聞会無欠席の記録を持つ。 
 マニュエル・ビリャール
image マニラ市トンド地区の質素な家庭に生まれる。子供の時から中国人商人をみて実業家になると誓い、市場で小エビや魚を売っていた母親を手伝っていた。勤労学生として国立フィリピン大学に学び、経営学および会計学修士号を取得。
 住宅販売に携わり、やがて低中所得者層向け住宅を10万軒以上建てて住宅業界のリーダーとなった。
 92年にラスピニャス・モンテンルパ選挙区から下院議員に当選。サブディビジョン(分譲住宅地区)の道路の一般開放に尽力、首都圏南部の交通渋滞を緩和する「フレンドシップ道路」を導入した。また、バンブーオルガンで世界的に有名なラスピニャス教会などラスピニャス市の特定地域を観光地に指定する共和国法8003号を成立させる。
 議員1期目にモンテンルパ、2期目にはラスピニャスを市に昇格させた。第11回定例議会で下院議長に就く。01年に上院議員に転身した。 
 ホアン・フラビエール
image 開業医出身で保健省長官を務めた経験を持つ。第10回定例議会では、新人ながらも国民が健康な国家というビジョンに従い、多数の法案および決議案を提出、いくつかの法律が成立している。また、関心は保健問題にとどまらず環境、開発さらには政府の責任問題にまで及んだ。
 第11回定例議会でも保健、環境、教育、科学技術、国家発展に焦点を絞った多くの法案を提出、大気汚染防止法、補償措置法、シートベルト着用法、電子商取引法を含めて提案した法案のいくつかは法律となった。
 庶民派として医薬品のコスト引き下げを求める病人の権利法、洪水対策法を起草。第12回定例議会では副議長。 
 ラモン・マグサイサイ・ジュニア
image 38年、後に不慮の事故死を遂げる故ラモン・マグサイサイ元大統領の一人息子としてマニラに生まれる。
 デ・ラ・サール大学で医療技師の学位を取得後、米ハーバード大学ビジネススクールとニューヨーク大学ビジネススクールに留学。
 66年にサンバレス選挙区から下院選に出馬して当選、政界入りする。任期満了後、民間の仕事に戻りケーブルテレビ事業の先駆者となる。95年にラカス−ラバン連合から上院選に立候補し当選。雇用や事業の機会拡大、国民の団結と治安を促進した。
 01年5月には与党ピープルパワー連合から出馬して再選を果たす。金融機関・通貨委員会の委員長として同年9月30日に成立したマネーロンダリング防止法(共和国法9160号)を提出。第12回定例議会では農業委員会および国防委員会委員長。 
 ジョーカー・アロヨ
image 国立フィリピン大学卒業の弁護士。一貫した自由の闘士でマルコス時代に最高裁に対し戒厳令の合憲性に異議を唱えた最初の弁護士。同様に、マルコスが制定した73年憲法の批准を疑い、ニノイ・アキノ、セルジオ・オスメニャ、ホセ・マリア・シソン、ホヴィト・サロンガ、ネネ・ピメンテル、エヴァ・カラウ、レナト・タニャダ、エドゥアルド・オラゲルら政治犯の裁判で弁護団に加わる。
 人権派弁護士として72年から86年にかけて多くの人権裁判を手がける。反対派による投獄や抗議集会中に負傷して入院した経験もある。
 アキノ政権で官房長官に指名される。86年から90年には、フィリピン・ナショナル・バンク(PNB)の頭取を務める。
 下院議員時代には3期9年間無欠席の記録を持ち、その間無所属で通した。エストラダ前大統領の弾劾裁判では主席検察官を務めた。01年5月の選挙で上院に当選。 
 フランシス・パンギリナン
image テレビの無料法律相談の弁護士として知られ、多くのテレビ・ラジオ番組のホストを務める。夫人は有名女優のシャロン・クネタ。
 学内政治で活躍した国立フィリピン大学法学部卒業、97年にはハーバード大学ケネディスクールで行政学修士号を取得。
 バランガイ(最小行政区)のレベルに法的支援を与えることを目的とした社会奉仕型テレビ番組のホストとして復活。弁護士として人権および汚職問題に精通する。アテネオ・デ・マニラ大学で法律を教え、ABS−CBN放送の法律アナリストとなる。
 91年にケソン市で最年少市議会議員として当選、政界入りする。市議会議員として全国青年立法者運動を創設、設立代表となる。エストラダ政権崩壊に重要な役割を果たした市民団体KOMPILの中心人物の一人。
 38歳で上院議員に初当選、教育、正義、雇用機会を通じた貧困削減を政治指針とする。国民の責任とグッド・ガバナンスにかかわる市民権運動にも積極的に取り組んでいる。 
 ラルフ・レクト
image 政治家ファミリーの出身。祖父は愛国主義者の故クラロ・レクト元上院議員、父のラファエル・レクト弁護士はバタサン・パンバンサ(1院制議会)の議員。夫人はリパ市長で有名女優のビルマ・サントス。
 デ・ラ・サール大学経営学部卒業、国立フィリピン大学ディリマン校で行政学修士号、アジア太平洋大学で戦略経営経済学修士号を取得。ハーバード大学ケネディスクール奨学生の資格を得る。
 第9回定例議会において最年少で下院議員に当選。37歳で最年少上院議員となる。下院時代の92年から01年に提出した法案の多くは成立、中でも社会改革および貧困緩和法、フィリピン経済区法、包括税制改革法は有名。
 教育制度の改善、低コストの健康増進プログラム、公的年金制度の強化、税制改革、インフラへの重点投資などの改革を推進する。 
 ロドルフォ・ビアソン
image パン屋の父と洗濯婦の母との間に生まれるが7歳で父親を失い、3人の妹とカビテ州のバラックに住みながら生活の糧を得るため空き瓶や新聞を売って貧困生活に耐える。
 勤労学生にもかかわらず優等で高校を卒業、大学の授業料を稼ぐため国道55号線(エドサ通り)で建設労働者として働いた。
 米国の陸軍と海軍の士官学校に合格したものの愛国心から57年にフィリピン士官学校(PMA)に入学。61年度卒業生では落ちこぼれだったが軍人としては立派な業績を残し、90年から参謀副総長、91年には参謀総長にまで登り詰めた。
 92年選挙で上院に初当選、98年に再選を果たす。反政府共産勢力との政府和平交渉団のメンバーを務めている。野党から与党に鞍替え、04年再選。
 マニュエル・ロハス
image 57年5月13日生まれ。小学校から高校までアテネオ・デ・マニラで学び大学1年まで同校で過ごし、76年にペンシルバニア大学ウォートン校(経済学)へ留学、その後ハーバード大学ケネディ校(政治学)を卒業、実業家、投資銀行家として活躍する。祖父はロハス元大統領、父は反マルコス派上院議員という有名な政治家一族の御曹司。
 92年、下院議員だった兄の死で補欠選挙に出馬、当選して政界入りする。下院時代は与党院内総務も務め、ロハス法とも呼ばれる教育関連法律の制定などに尽力した。
 業績は広く海外でも知られ、アジアウィーク誌はアジア太平洋地域における政治経済の若き指導者の一人として取り上げ、世界経済フォーラムは96年に将来を造り替える明日の世界の指導者の一人としている。 
 エストラダ政権で貿易産業省長官に就任したが、エストラダのフエテン疑惑が浮上した00年11月に閣僚を辞任、アロヨ政権が誕生すると再び貿易産業省長官に任命された。自由党所属。
 ピア・カエタノ
image 03年6月に肝臓移植の合併症で亡くなった故カエタノ前上院議員の娘で弁護士。弟は現職下院議員。父親が務めていた人気の全国放送のラジオ番組、無料法律相談を引き継ぐ。夫も同じく弁護士。
 66年3月22日、米国ミシガン州生まれ。国立フィリピン大学経済学部卒業後に米メリルリンチに入社するも2年後に父の勧めで帰国、フィリピン大学法学部に入り直す。卒業後司法試験に合格、弁護士活動を始める。
 父の生前から上院選への出馬を周囲から勧められていたという。今回の選挙では与党連合K4の公認を得た時点で当選が確実視されていた。議員としての優先課題は保健と教育、男女平等、女性の地位向上、地方事業の開発、環境保護など。
 ボン・レビリャ
image 66年9月25日マニラ生まれ。カビテ州イムス町の小学校を卒業、米ロサンゼルスのフェアファックス高校を卒業。人気アクションスターだったラモン・レビリャ前上院議員の息子で同じくアクションスターとして活躍する。
 95年、カビテ州副知事に当選、違法賭博対策に取り組む。98年には同州知事に当選した。この時、ニノン(ゴッドファーザー)であるエストラダが大統領に当選している。
 01年1月の政変ではエストラダを見限って反エストラダ派の支持を表明したものの、アロヨ派への鞍替えで逆に支持を失ったのか、その年の知事選で落選した。ただ、翌年にアロヨ政権はレビリャをビデオ規制委員長に抜擢、海賊版ビデオCDなどの大規模な取り締まりに乗り出し成果を上げ、米映画協会などから表彰されている。夫人は女優のメルカドさんで、子供は6人。
 リチャード・ゴードン
image  45年8月5日生まれ。オロンガポ市の名門ゴードン家の出身、父親はオロンガポ町制時の初代町長で母親はオロンガポ市制時の初代市長、自身も最年少市長として80年から93年までオロンガポ市長を務めた。
 国立フィリピン大学法学部2回生の71年には最年少(24歳)で憲法評議会のメンバーに選出されている。卒業後は弁護士として法律事務所に勤務する。
 米軍基地撤去後にはオロンガポ市のスービック基地跡の再開発を行うスービック湾都市圏公団総裁を92年から98年まで務めた。また、一時期フィリピン赤十字社社長も務めている。アロヨ政権で観光省長官を務める。
 リト・ラピド
image 55年10月26日、パンパンガ州ポラック町の貧しい農家に生まれる。パンパンガ農大中退も後に名誉博士号を授与される。スタントマンから始めて80年代には人気アクションスターとなる。92年にパンパンガ州副知事、95年に同州知事に当選、3期務める。91年のピナツボ火山大噴火での人道復興支援でフィリピン系米国人の団体から表彰される。当初は下院選に出馬する方針だったがアロヨ大統領の要請を受けて上院選へ出馬。英語が苦手で議場では通訳を利用するのではといわれたが、関係者は「うまく話せないだけで十分理解できる」と問題はないとしている。同じパンパンガ出身のアロヨ大統領とは近い関係にある。
 デフェンソール・サンチャゴ
image 45年6月15日、イロイロ州生まれ。国立フィリピン大学文学部(主席)、法学部卒業。ミシガン大学留学、法学修士号、法学博士号取得。卒業後は司法省入省、特別補佐官などを務める。マルコス時代にケソン市地裁の判事となる。アキノ政権では出入国管理局長を務め、卓越した実績でマグサイサイ賞を受賞。他に農地改革省長官などを歴任、フィリピン大学法学部教授でもあった。92年の大統領選挙に出馬、首都圏で勝利し、一時は勝利宣言をしたが、その後地方の開票でラモスに敗れた。95年から01年は上院議員。03年、大学生の息子が成績を苦に自殺、これをきっかけに政界復帰を決意。与党連合K4公認で出馬、当選するも与党から離脱、無所属となる。